先日、小倉・到津遊園(現・到津の森公園)の戦前絵葉書集の中で未入手だった「ミッキー横町」絵葉書の入ったセットを入手しました。以下、拡大画像には「ミッキー横町」の文字と、ミッキーさんらしい一部が映っています。
1936(昭和11)年、現存している子供ホール完成時に運営会社の九州電気軌道(西日本鉄道の前身企業)が発行したもの。すでにミッキーマウス・ブームが北九州にも来ていたことが分かります。以下、子供ホール完成当時の外観。この中に「ミッキー横町」もあったようです。
日本初の子ども向け「電気カー(電動自動車)」の絵葉書も状態が良く満足…。九州電気軌道が開発した電気バスの技術(昭和9年から約1年間運行)を遊具に転換したものです。
電気バス開発の過程は、九州電気軌道が当時発行していた社内報に掲載されていますが、当時専務の村上巧児(のち西日本鉄道発足時の社長、井筒屋や到津遊園、西鉄ライオンズなどの生みの親)が渡米時にエジソンに直接面会した際のエピソードも自伝に書かれているなど、「ミッキー横町」と名付ける発端的な記述も随所に見られます。
村上は童話作家で「日本のアンデルセン」と呼ばれた久留島武彦と幼馴染で、到津遊園の夏季林間学園(林間学校)初代園長は久留島でした。ライフワークで研究している鳥瞰図絵師・吉田初三郎が久留島と懇意であることから、村上との接点もできて九州電気軌道の沿線案内や到津遊園の絵葉書も手がけていることもあり、村上の生涯や功績に興味を持ちました。
村上は晩年、故郷・中津市に児童館「童心会館」を寄付するなど、青少年児童向け施設の開設にたくさん関わっています。到津遊園だけでなく、太宰府天満宮の「だざいふ遊園地」なども村上に相談が持ち込まれて実現したものです。4年前、だざいふ遊園地60周年の秋には、村上と久留島の関係を含めて特別展を企画させていただき、今回入手した「ミッキー横町」絵葉書も探していました。
のちのゲームセンターやレジャー施設の原型となる屋内レジャー施設、九州の原点は到津遊園なんだなと改めて思っているところです。以下の絵葉書、射撃遊びはわかるんですが、その下の「マトスコーフ」は、画像をみる限りエジソンが開発した映画鑑賞装置「キネトスコープ」と「シネマトグラフ」を合わせた造語でしょうか。
いずれにしても、この絵葉書は1930年代の貴重な庶民文化資料だなと感じています。