記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

福岡大空襲の日に思うこと。

2009年06月20日 04時59分54秒 | 博多部
 昨日は冷泉公園で戦没者慰霊祭が行われた。昨年のどしゃ降り雨とはうって
かわって今年は快晴、とにかく暑かった。64年前の6月19日夜、福岡市中心部
の大半を焦土にした大空襲は、戦後の福岡のまちづくりを左右した転換期とな
った。

 昭和10年代に練られた都市計画に沿って、戦時中に本土空襲が始まると、延
焼を防ぐ目的で大規模な「間引き疎開」が始まる。今の昭和通り、国体道路な
ど都市計画道路の多くは、昭和19年以降に強制的に立ち退きされた方々の犠牲
がきっかけで誕生した。

 しかし、犠牲を払って移転疎開した方々の多くは、64年前の大空襲で被災を
免れることになる。県内の朝倉・浮羽方面へ疎開した方が多かったようだ。そ
れらの商家・民家に遺っていた写真や資料が今に遺っている訳で、巡り合わせ
とはそんなものなのだろう。

 戦前の博多で名の知れた大旅館であった、吉田初三郎ゆかりの水野旅館や、
カフェ・ブラジレイロも東中洲の川縁が全て撤去されたおかげで、戦前の貴重
な資料群が遺っている。また、戦災にはあっていないが、櫛田神社裏の「かろ
のうろん」は、元々は今の国体道路の真ん中あたりにあったが、戦時下での強
制疎開で移転させられて「かろ=角」に移ったもの(笑)。

 一昨年、米国公文書館に遺る戦災前の福岡市上空からの空中写真を見せても
らったことがある。日本地図センターが権利を受け、閲覧等ができるようにな
ったもので当時は未公開だった。昭和20年春、「間引き疎開」の最中に市内全
域をきっちり丁寧に撮影していて間引きされてできた空白地が道路になったこ
とが一目瞭然である。

 これは空襲計画(焼夷弾投下の目標地、数を決める)の資料として米軍が撮
影したものだが、鮮明な画像でとても貴重な資料である。いわゆる今でいう処
の「グーグルアース」だ。戦後の昭和22年頃、復興の最中の町並みも米軍は同
じく記録撮影しているので、比較するとさらによく判る。

 戦後の国土地理院所蔵の空中写真は、以下のサイトから閲覧が可能だ。昭和
31年、西鉄ライオンズが初の日本一になった頃をはじめとした、戦後の福博の
町並みの遍歴が楽しめる。
国土変遷アーカイブ・空中写真閲覧
 戦前の米軍撮影写真についてはネット等では非公開で、日本地図センターで
写真は購入可能だ。
米国国立公文書館所蔵の米軍撮影空中写真

 今日の写真は、昭和37年頃の明治通り(当時は通称「貫線」)の光景。
博多のまちは、櫛田神社で桟敷席の組み立てが始まり、飾り山の準備も各地
で始まっている。これから4週間は、山笠一色である。

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