marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(201回目)ローマ人への手紙(第6章1節~14節)

2016-12-13 20:59:46 | 日記
◆(6:8)「もし、わたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」
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第6章に入り、パウロさんの理屈めいた訴えは続きます。それは、前にも書きましたが、そのように先祖伝来の聖書をユダヤ人は研究しておりましたので、そういう人に向かって書いているので、理屈めいて(僕らにとってそのように読める)説明を進めている訳です。あなたたちが信じてきた聖書はイエスその方を示しているのであると、さらに、イエスの死からの復活は、神のなせる業そのもので動かしがたい事実である。したがって、我々は(つまり、ユダヤ人である神の言葉をゆだねられている我々は)、率先して信仰を持つべきであるという考えが当然のごとくにパウロさんにはあったのです。しかも、異邦人伝道を使命としていたので、そこ(かたくななユダヤ人)を通して神は全人類の救済の足がかりとして異邦人伝道に、そして全世界に神の救済の出来事、つまりイエスのことは述べ伝えられ、一人でも多く救いに導かなければならないとの闘志を燃やしていたのです。
◆ここでは、きわめて大切なことが述べられています。それは”罪”のことと”死”のことについて限定して、ここに誰しもに訪れる出来事について話は突っ込ん進められていきます。ここからは、ひとそれぞれによって全く無関心か、関心を引かないかのどちらかに分かれてくるようなところではある。しかし、どうしてユダヤ人は神から選ばれし民(良し悪しは別にしても)と言われるのだろうか。しかし、まさにここにあるのだ。メメントモリ(常に死を思え)という言葉があるごとく、僕らは頭で観念として”死”を考えても誰しもが、身近にその事件が起こらなければ考えるわけでもなく、真剣に”命”を考えるわけでもなく、それは当たり前が前提となっているのが通常だ。しかし、その当たり前だけでは、生まれたままの血と肉ではないか、そのままでは、単なる動物と同じ朽ちて果てていくだけではないかというわけなのだ。だから、”新たに生まれなければ神の国を見ることはできない”ということになる。その選択肢は、まさにいついかなる時もその判断、決断は我々一人一人に”今”かかっているということなのだ。ユダヤ人にとっては、少なくとも正統派と言われる人々は、イエスを受け容れようともそうでなくてもとにかく”関心”を持たざるを得ない体に刻まれた重大なことなのであった。これだけでもローマ人への手紙は全人類に読まれるべき内容であるのだと思う。命へ至る言葉は、全人類に開示されたのだ。
◆ここで、生まれてきたままの肉体をイエスとともに十字架につけられたという。われわれの肉体は死んだのだという。霊と肉体(生まれたままの)の分離を我々に考えさせる。つまり、前回にも述べてきた、自分の肉体からのエクソダス(脱出)である。生まれたままの制約ある自分の肉体、あらゆる自由への阻害を取りのぞくために、自分の血と肉なるその不自由な肉体を十字架につけよ、また、つけられたという。パウロはここで、古い肉体はイエスともに死んだとの完了形でも語り、あるいは、新たなる霊(イエスの霊)にあずかることができているが、弱き我々はその中でも古き肉の思い(罪)との行きつ戻りつをするから、罪に対しては死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であるとしっかり認識し、後には戻るな、古い自分に死んで神の支配の一員としてその道に前進せよと励ます。なぜなら、イエスの十字架は完全に成し遂げられたのだからと。・・・ Ω