marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(220回目)ローマ人への手紙(9章14節~18節)

2016-12-31 13:34:43 | 日記
(9:16)「ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
◆神は、そもそもどういう方であるのかという展開がここからなされていきますが、異邦人であるひとびとばかりでなく、これを読んだユダヤ人も天地創造以前の神のあり方、神とはそもそもどういう方であるかの新たなる(改めてと言った方がいいかもしれないが)解釈を迫られたのではないかと思う。
◇というのは、世界中の誰でもと思うが、生きてる自分が神を思う時に、それはどの神とは言わないまでも自分のことは理解されていると思っているのではないかと思うのです。神様はすべてご存じだからここにいる私もご存じ、私の願いは届きつながっていると思っている。それでなければ、神社にあれほどたくさんの人々は参拝しないだろう。今日は2016年の大晦日であるが、この日本でテレビで毎年見られる大きな神社でのプールにシートを引いたような賽銭入れは、そして投げ込まれるお金に関してはどうしたものだろうと思う。
◇僕は何も神道やお寺に文句があるわけではない。それを行う人々の考えはどうしたものなのかということを言っているのである。旧約時代の考古学の研究調査が行われて来ており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教の聖地ともなっているエルサレムは、岩のドームはイスラム教のものであるので、その場所は手が付けられないけれど、その他は採掘など発掘調査が行われ、炭素の年代調査などからどの時代にどのような生活をしていたかがわかるようようなのである(youtubeで見られます)。それによるとエルサレム神殿があるにも係わらず周囲のバビロン捕囚以前の民家後からは結構、豊穣の女神(大きな胸)の小さな石の人形大の置物が掘り出されているのだと。
◆僕がここで言いたいことはこうだ。天地創造のイスラエルの神に歴史を導かれてきたと言えども、人という生き物はいかなる時代も神という対象物を人という生き物の自己了解の納得のものとしての対象物、それは人が実際に目で見ることができ、手で触れることができ、衣食住を保証(特に食)を保証し、さらに、労働力を満たしそして生物としての勢力範囲を広めるという動物的欲求(生殖)を満たすことを叶えるのが神が神たる所以であると理解しているのである。それがある程度、満たされれば今度は、欲求は縮小してもいずれ個人の希望がかなえられるようにと。いずれ、庇護のもとの自己了解のすべてにおいてよきに計らう存在としての神なのである。それは、時代が時代ならば、背後にあって戦い守る神ともなるのであるが。しかもイデオロギーとして。
◆ところが、パウロが論説を進める天地創造までフラッシュバックしたような、ここでの神というのはどういう存在であるのかという内容は、手っ取り早く言えば、人間を煮て食おうが焼いて食おうが、神の勝手なのであるということになる。(こういう言い方も先の人間的な思いがあるからとなるのですが、冷静に言えば我々は、神がどのようなお考えでなさるかなどは、我々は被創造物なのであるからただ、従うしかないのであるという次元におられる方なのである、ということになるのです。たとえで言えば、天候をよくしてください。長生きさせてください。もっと美形にしてくださいというようなことは、たとえ人間が努力しても、もともとはそのようになっているから、そうなのだとしか言えない範疇に属することなのである。つまり、とても高い次元からの物言いなのである。)天地創造のパラダイスにおられる父なる神と呼ばれる方は本来、そういう方なのだろう。パウロの理解はその次元からの物言いで論を進めていくのです。とても次元の高い話のようでつながりが途切れそうになりそうだ。
◇(9:17)「聖書はパロ(頑なにエジプト脱出を拒んだ当時の王)にこう言っている。「わたしがあなたを立てたのは、このことのためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。(9:18)「だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」。・・・ 

世界のベストセラーを読む(219回目)ローマ人への手紙 解釈として注意する言葉「憎む」

2016-12-31 13:29:55 | 日記
今回は少しくだくだと・・・お許し下さい。
◇初めての方がまず宗教としての恐ろしさ?を感ずる(と僕が思っている)言葉についての解釈について書いておきたいと思います。異邦人の僕らには、そして、”すべてのしがらみから解放されて”という僕のこのブログの趣旨からすれば、まさにここに何を言いたいのか、そして”自分の言葉で読む”で読むとはそういうことかの僕なりの理由がある。一般の通念で理解されている言葉の意味で解釈してしまい聖書を読んで嫌な気分にさせられる言葉については、特に注意を要します。
◆宗教としての恐ろしさとは、結論をいうとそれは、イエスの言葉を自分の言葉で読もうとしたときに、必ずといっていいか、その間に人間(不完全な)の言葉がフィルターとして、善きにしろ悪しきにしろ立ち現れてくるからです。(先の通念しかり)
◆(急に個人的なこと)僕の普段の品質保証という仕事がら、何事にも品質を判定する基準というのがあって、特に守らねばいけないのは顧客との取り決めということになりますが、数値の場合はまだしも、言葉でのあり方については言葉の定義が必要です。この言葉を用いる場合は、こういう制限、制約の中で用いられるこという具合に。
◇イエスと直接、話をするとき最終、私はこうであるという結論が出てきます(人に言わなくても内的自省として)。これは、生涯終わるまで続きます。(多くのしっかりしたと思われるキリスト者は多くの悩みを通常のように抱えてますが、そうして解決していると思いたい)。
◇ここでの注意は、その判断に条件が設定されていないということです。ここでいう条件とは、誰それがこう言っているからとか、そういう言われがあるからとかの理由は、まだ自分の意見を持つ段階の途中であるので、結論として持ち出してはいけないと言うことですね。自分の意見になる前の(イエスから回答をいただく前のと言ったらいいでしょうか)段階であるからです。聖書を読んでおかしいとか、疑問に思われることは、その考えを大切にして欲しい。
◇さて、13節に書かれた「憎む」という言葉、これ以上に長々と解説を付けて訳すことができないので、聖書はその通りに訳しているのですが、僕らが今、読んでも、おそらくどこの国の人が読んでも、この言葉、つまり白か黒かを感情表現の言葉で書き込んでいることに違和感を覚えるに違いないと思う。聖書すべてに渡って、違和感のある言葉は、当時のそれなりの使用している人々の流布されて用いられた言葉であることを先理解としてしっかり心に留めておくことが必要です。
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◇今回のロマ書(9:13)「わたしはヤコブを愛しエソウを憎んだ」と書いてあるとおりである。これはパウロが(旧約)聖書一番最後にあるマラキ書第一章の2節、3節に書かれているところを引用しているのですが、このきつい言葉の定義は、次のとおり
◆ここに使用された「憎む」という動詞は、日本語の字面で解釈しない方がよい。さもないと、ユダヤ人である語り手の意図を、誤解してしまう恐れがあるからだ。「憎む」をヘブライ語でサネー(SNA)という。「より少なく愛する」、「二番目に置く」というのがこの語の持つヘブライ的ニュアンスである。他に例としてルカ14章26-27節「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、更に自分の命を憎まない者は私の弟子となることはできない。」とか「嫌われている」とか、創世記第29章31節、申命記第21章15-17節などの表現も同様とのことです。・・・Ω