今回は小難しいです。
◆(8:31)「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵対し得ようか。」・・・この聖書のパウロの手紙の言葉は、かの宗教改革をなしたマルチン・ルターの話なりには必ず出てきていたような気がする。
◆世の終わりになり、神の言葉が人間の言葉になりかわり周知され飽きてきたときに、我々の戦いは、人間の”良心”と”従順”である。十字架の横の棒は無限に広がるが、一人ひとりの縦の杭がない。地についていない浮遊する我らが漂っているだけのそういう時代になっていくのだろうか。ルターにとって、いわば人間の言葉で了解し、周知されかさぶたのような干からびた言葉を操る巨大な機構に、自分の言葉で神の言葉に相対峙したときに、その虚飾の権威にプロテストしたのであった。
◆そこで久々に文庫本、カール・バルトの「ローマ書講解(下)」(平凡社:小川圭治、岩波哲男訳)を広げると、やはりこの箇所にルターの言葉の解釈がはじめから載っていた。(p126)「神(デウス)がもしわれわれの味方(プロ・ノビス)であるなら、だれがわれわれに逆らう(コントラ・ノス)だろうか〔原文ラテン語〕。もしわれわれというラテン語の代名詞nosとnobisを完全に格変化させ、そしてそれを理解することができるとすれば、われわれは神(デウス)という名詞をも動詞として変化させ、この名詞から動詞をつくりだすであろう。すなわち、その変化は、<神が語り、また、語られている(デウス・デイクスイト エト デイクトウム・エスト)>、と。そうすると、逆らう(コントラ)という前置詞は、全く役に立たなくなり、結局それは<われわれのもとに(インフラ・ノス)>ということになるだろう。が、こういうことは起こるだろうし、起こらなければならない。アーメン」(ルター) その後には次のような言葉が続きます。
◆「われわれの味方をする神」とは、しかし神を愛する者たちに対して言われていることである。しかし「われわれの味方をする神」とは、対立の国がわれわれの背後にあること、つまり、われわれが、今、ここで、いつでも、すべてのことを見ている、すなわち、神から見れば世界が、世界から見れば神が、闇の中にあるという二元性が克服されていること、これらの前代未聞のことを意味する。(p127)
◆結論から言えば、また、次の聖句が引かれている。「死は勝利に飲まれてしまった」(コリント第一15:55)、「すべてにおいてすべてになる神」(コリント第一15:28)である。
◇万物の創造者であるなら、われわれひとりひとりも被造物としてその業の中に総括されて”ある”。そこから飛び出し外から見られる立場に本来我々はない。しかし、ここでパウロは、神の肯定の中に、誰が(8:31)、誰が(8:33)、「誰が」(8:34)、「誰が」(8:35)否定を持ち込むことができるかという。あえてありとあらゆる否定を持ってきてもそれはどだい無理なことだと訴えているのである。考えて見るに 神は統括して”ある”存在なので、それ(神)と対立して立たしめることの”何もの”をも無いのだ。よって、われわらの欠陥としての死をもたらす凡て(罪)において、イエスがそれを十字架上で帳消しにされ、そのことを信ずるが故に、更にわれらもその神の御子が長子となられる群れの一員となるとすれば、そのような立場にたたしめられた我等には、イエス。キリストにおける神の愛から、我等を引気はなすことがは決してできないと述べるのである。
◇思えば、光の中に向かっていくと、影ができ、さらに進み行けば、光の回折現象により、取り囲まれ光に満たされるから影はどこにも見られなくなるという、そういう神の光に包まれるというイメージであろうか。・・
◆(8:31)「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵対し得ようか。」・・・この聖書のパウロの手紙の言葉は、かの宗教改革をなしたマルチン・ルターの話なりには必ず出てきていたような気がする。
◆世の終わりになり、神の言葉が人間の言葉になりかわり周知され飽きてきたときに、我々の戦いは、人間の”良心”と”従順”である。十字架の横の棒は無限に広がるが、一人ひとりの縦の杭がない。地についていない浮遊する我らが漂っているだけのそういう時代になっていくのだろうか。ルターにとって、いわば人間の言葉で了解し、周知されかさぶたのような干からびた言葉を操る巨大な機構に、自分の言葉で神の言葉に相対峙したときに、その虚飾の権威にプロテストしたのであった。
◆そこで久々に文庫本、カール・バルトの「ローマ書講解(下)」(平凡社:小川圭治、岩波哲男訳)を広げると、やはりこの箇所にルターの言葉の解釈がはじめから載っていた。(p126)「神(デウス)がもしわれわれの味方(プロ・ノビス)であるなら、だれがわれわれに逆らう(コントラ・ノス)だろうか〔原文ラテン語〕。もしわれわれというラテン語の代名詞nosとnobisを完全に格変化させ、そしてそれを理解することができるとすれば、われわれは神(デウス)という名詞をも動詞として変化させ、この名詞から動詞をつくりだすであろう。すなわち、その変化は、<神が語り、また、語られている(デウス・デイクスイト エト デイクトウム・エスト)>、と。そうすると、逆らう(コントラ)という前置詞は、全く役に立たなくなり、結局それは<われわれのもとに(インフラ・ノス)>ということになるだろう。が、こういうことは起こるだろうし、起こらなければならない。アーメン」(ルター) その後には次のような言葉が続きます。
◆「われわれの味方をする神」とは、しかし神を愛する者たちに対して言われていることである。しかし「われわれの味方をする神」とは、対立の国がわれわれの背後にあること、つまり、われわれが、今、ここで、いつでも、すべてのことを見ている、すなわち、神から見れば世界が、世界から見れば神が、闇の中にあるという二元性が克服されていること、これらの前代未聞のことを意味する。(p127)
◆結論から言えば、また、次の聖句が引かれている。「死は勝利に飲まれてしまった」(コリント第一15:55)、「すべてにおいてすべてになる神」(コリント第一15:28)である。
◇万物の創造者であるなら、われわれひとりひとりも被造物としてその業の中に総括されて”ある”。そこから飛び出し外から見られる立場に本来我々はない。しかし、ここでパウロは、神の肯定の中に、誰が(8:31)、誰が(8:33)、「誰が」(8:34)、「誰が」(8:35)否定を持ち込むことができるかという。あえてありとあらゆる否定を持ってきてもそれはどだい無理なことだと訴えているのである。考えて見るに 神は統括して”ある”存在なので、それ(神)と対立して立たしめることの”何もの”をも無いのだ。よって、われわらの欠陥としての死をもたらす凡て(罪)において、イエスがそれを十字架上で帳消しにされ、そのことを信ずるが故に、更にわれらもその神の御子が長子となられる群れの一員となるとすれば、そのような立場にたたしめられた我等には、イエス。キリストにおける神の愛から、我等を引気はなすことがは決してできないと述べるのである。
◇思えば、光の中に向かっていくと、影ができ、さらに進み行けば、光の回折現象により、取り囲まれ光に満たされるから影はどこにも見られなくなるという、そういう神の光に包まれるというイメージであろうか。・・
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