◆(7:4)「わたしたちの兄弟よ。このように、あなたがたも、キリストの体をとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。(7:5)というのは、わたしたちが肉にあった時には律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体に働いていた。(7:6)しかし、今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく新しい霊によって仕えているのである。」
◆さて、パウロは第7章に入り、それまでの肉と霊の二元論への追求について、具体的に先理解のある人々、つまりユダヤ人に向かってより理屈めいて説得し、だめ押しの論法で語っていく。それは、1節に わたしは律法を知っている人々に対して語るのであるが・・・とあるからである。そして、ここに来て、以降、兄弟たちよと呼びかけていくのである。手紙を読むには、誰が誰に書いたのか、どういう時代背景にか、どういう境遇でか、そして誰に向かってかなどに注意して読むと、当時の手紙は、多くの人に読み聞かせられたものだから聞く人は、当然、聞く人一般人の周知の元、その中の私に語っているのだと理解していったに違いない。ということは、自分が理解したことは、同時にブログと同じように読み聞かせられた人、読んだ人はそのとき、同時に極めて近い理解を持ったであろうということだ。ローマ人への手紙のそれぞれの節の冒頭から、「あなた」、「あなたがた」、「兄弟よ」と変化している内容はどういうことだったかを理解すれば、パウロは語る相手に話す内容に相手の距離を置きながら、語りかける内容の深い理解を投げ掛けたことに心砕いたことが理解される。そして、以降の「兄弟よ」とは、時代を超えて今のわたしたちにも語りかけているのである。
◆さて、前回の終わり(6:23)に「罪の支払う報酬は死である。」とある。これに似た言葉が(8:6)「肉の思いは死である~」とある。こういうことから、古来から宗教が荒行をはじめ、肉体に苦行を科すということが行われた来たのを思わずにはいられない。しかし、キリスト教では、その肉体はキリストと共に十字架に付けられて私の肉体は死んだのだというのである。
キリスト教の大いなるパラドキシカル・エネルギーはここにあるのだろうかと思わされる。肉体への試練、思いにおける苦難などの試練においてもそれは、キリストの十字架を思うが故の恵みの試練ということになるのだろうか。肉体に死んで、霊に生きるのであるというのである。さらに、それは軽薄に理解すべきものではないことが、パウロの自分を見つめたときの自力ではいかんともしがたい肉としての自分の姿に苦慮する言葉が続いているのを見る。(7:17)「そこで、このことをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」
◆196回目に書いたが、僕らには生まれきの制約がある。誰しもそこまで自分を見つめたりはしないだろうが、いずれ気がつかないまでも僕らは地上の人生を終えて次の世界へ行くのである。仏教では輪廻転生というのだろうが、キリスト者はこの肉体がキリストと共に十字架に付けられたのであるから、この不完全な肉体に引きずられるような次の世界は無いのだ。キリスト者の転生は、次の世界、キリストと共なる永遠のパラダイスに住むことになるというのだ。地上に生まれ変わることは永遠にない。イエスは天上界に我々を迎えるべく部屋を用意してあると語ったのだ。そして、迎えにくるから信じて待っていなさいと言っているのだ。キリスト・イエスを信ずることは永遠の命へのパスポートなのだ。将来の地球は、核の汚染でとても人が住めるような状況にはないだろうと思う。・・・ Ω
◆さて、パウロは第7章に入り、それまでの肉と霊の二元論への追求について、具体的に先理解のある人々、つまりユダヤ人に向かってより理屈めいて説得し、だめ押しの論法で語っていく。それは、1節に わたしは律法を知っている人々に対して語るのであるが・・・とあるからである。そして、ここに来て、以降、兄弟たちよと呼びかけていくのである。手紙を読むには、誰が誰に書いたのか、どういう時代背景にか、どういう境遇でか、そして誰に向かってかなどに注意して読むと、当時の手紙は、多くの人に読み聞かせられたものだから聞く人は、当然、聞く人一般人の周知の元、その中の私に語っているのだと理解していったに違いない。ということは、自分が理解したことは、同時にブログと同じように読み聞かせられた人、読んだ人はそのとき、同時に極めて近い理解を持ったであろうということだ。ローマ人への手紙のそれぞれの節の冒頭から、「あなた」、「あなたがた」、「兄弟よ」と変化している内容はどういうことだったかを理解すれば、パウロは語る相手に話す内容に相手の距離を置きながら、語りかける内容の深い理解を投げ掛けたことに心砕いたことが理解される。そして、以降の「兄弟よ」とは、時代を超えて今のわたしたちにも語りかけているのである。
◆さて、前回の終わり(6:23)に「罪の支払う報酬は死である。」とある。これに似た言葉が(8:6)「肉の思いは死である~」とある。こういうことから、古来から宗教が荒行をはじめ、肉体に苦行を科すということが行われた来たのを思わずにはいられない。しかし、キリスト教では、その肉体はキリストと共に十字架に付けられて私の肉体は死んだのだというのである。
キリスト教の大いなるパラドキシカル・エネルギーはここにあるのだろうかと思わされる。肉体への試練、思いにおける苦難などの試練においてもそれは、キリストの十字架を思うが故の恵みの試練ということになるのだろうか。肉体に死んで、霊に生きるのであるというのである。さらに、それは軽薄に理解すべきものではないことが、パウロの自分を見つめたときの自力ではいかんともしがたい肉としての自分の姿に苦慮する言葉が続いているのを見る。(7:17)「そこで、このことをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」
◆196回目に書いたが、僕らには生まれきの制約がある。誰しもそこまで自分を見つめたりはしないだろうが、いずれ気がつかないまでも僕らは地上の人生を終えて次の世界へ行くのである。仏教では輪廻転生というのだろうが、キリスト者はこの肉体がキリストと共に十字架に付けられたのであるから、この不完全な肉体に引きずられるような次の世界は無いのだ。キリスト者の転生は、次の世界、キリストと共なる永遠のパラダイスに住むことになるというのだ。地上に生まれ変わることは永遠にない。イエスは天上界に我々を迎えるべく部屋を用意してあると語ったのだ。そして、迎えにくるから信じて待っていなさいと言っているのだ。キリスト・イエスを信ずることは永遠の命へのパスポートなのだ。将来の地球は、核の汚染でとても人が住めるような状況にはないだろうと思う。・・・ Ω