marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(194回目)ローマ人への手紙(第3章31節)

2016-12-06 22:12:21 | 日記
実は、重要なパウロさんのローマ人への手紙 第3章31節
◆(3:31)「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」 
◇ここで、僕らは、信仰義人とはなんぞやとか、なんでキリスト教が現在までの歴史の中でいろいろな宗派に分かれたり、たとえば急に話がドメスチックになるが、内村鑑三がアメリカから帰り、無教会(これは宗派を持たないという会)主義を立ち上げたのかなどを考えて見なくてはいけないと思うのである。(アメリカでの当時の宗派間は多数あった)。僕らは、実に弱いものであるから、一つの人間の考え、一つの集団など帰属意識がどうしても生きていくうちでは生じてくる。それは、地上のキリスト者の群れであってもそれを維持しようと思えば、それが生じてくるものである。この地上で、イエスの信仰の集団を維持していこうとすれば、聖書の解釈によって・・・。しかし、人間の言葉で総括し始めていくとき、地上においては必要なことではあるが、きわめてそれは、形骸化していくものであることを留意しなくてはいけない。ひとりひとりは、イエス肯定に関しては自分の言葉で獲得していき、しかもそれに安住してはいけないということである。パウロ自体を見よ。私はとらえたなどと思っていない、ひたすら目指して走っているのだ。(オメガ点へ?)しかも、我々は今は、ぼんやりとしか見えていないが、そのとき(イエスとの再見?)には、すっきり明らかになるのだと言っている。
◆ここで僕らは、パウロが、「律法を確立するのである」といった言葉を今一度考えてみたい。信仰を持つことによって、その内なる求めから見れば動機的にもそれは完全になるということを意味していると捕らえることができるだろう。むろん、外なる人からの律法をこなしていくことは限界があろう。しかし、内なる人において自らの欠陥をイエスの十字架により補完されて万全となるとすれば、内から外へ、キリストわが内に生きるなり、と霊的促しがその人の外部に向かい、行いにも現れ本来の律法の完成へとむかわしめるのであると。それは本来の律法の役割であったのではなかったか。だから、個々人の根はしっかりとイエスの十字架によりつながれて、そこからの復活によってひとりひとりの群れ全体が、キリストの体なる教会(有機的な目には見えないエクレーシア)の共同体への完成へとつながっていくというイメージの形成と実現は律法の本来の目的の確立へと向かうことになるのだというのである。(これは僕の解釈である)
◆この過程において、個々人がより、まことの人なるキリストの体に近づいていくというイメージは、基本の礎(根)があれば、普段の生活の中で、それは宗教的な抹香臭いものでは決してなく(宗教がらみの薄気味悪い心の<精神の>呪縛は、本来キリスト教が最も嫌うことの一つである)、一つの完成体への指向性をもつ動的エートスと呼ばれるようにもなる一つの心情的システムが生活基盤の中にできあがっていき、日々、一日、一日の今を生きている私自身の存在、命の意味となり、総じてそれはキリスト者の内面においては、「義の奴隷として献げて聖なる生活を送りなさい」(6:19)いわれることの実現にもなっていると僕は考えるのである。・・・ Ω