marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(192回目)ローマ人への手紙(第3章19節ー31節)

2016-12-04 21:26:16 | 日記
今回は、もっと難しいかも・・・
◇(3:19)「私たちが知っているように、すべて律法の言うところは律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。」(3:20)「なぜなら、律法の行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」
◆パウロが先理解のあるユダヤ人(つまり、天地創造のそして人間を創造されし神に選ばれし民族としての歴史伝統を理解、体現してきた民族)と、混在となったギリシャ人、他異邦人に対する伝道をいかにして理解してもらうかの手紙の苦慮を読み取ることができると書いてきた。律法のあるユダヤ人はまだしも律法のない異邦人には自分自身が律法であるとして、その与えられている良心に証がなされていると言い、神の普遍的な影響が誰をも免れないのであると訴えるパウロには一宗教でなく天地創造来の神の働きが全人類に及んでいるのであるとの考えが背景に堅くある。その背景があり、異邦人伝道に力を注ぐ、パウロの苦慮は、全人類に対してその律法に、異邦人にはそれに代わる良心にまず第一に訴えかけるのであった。
◆ここで、異邦人である我らにおいても、何等かの良心はあるものである。親からの遺伝か、動物としての心情回路として組み込まれたものなのか、いずれあるにはある。ここで天地創造来の神を知らなかったとして、その良心とやらが異邦人には律法を持たなくても自分自身が律法なのであると言われてみれば、まあ、そのように想定しても言うならばそのようにいえるであろうと納得させられる。(2:13~15)
◆そこで、だからいずれにしろ、全人類は神の目から見れば、誰一人 義であるとは言えないのであるということで 冒頭の(3:19-20)の文言になるのである。神が与えたもう律法に対しては誰でもが罪の自覚が生じるのみであると。渾然一体となった民族の中で、例えば僕らにとってはどうだろうか。どうぞ、そう思われる人はご勝手に・・・と。しかし、
◆そこでだ。だから、離散した民、天地創造のそして人間を創造されし神に選ばれし民族としての歴史伝統を理解、体現してきた民族である同胞のユダヤ人、神の律法に敏感なユダヤ人へ、その思いの核心への筆を進めるているのである。なぜなら、彼らは、造られしものすべての命を与えし神から与えられた律法は、ただその良心というのみではなく、永遠の命に係わるものでるということを体に刻んでいるからなのである。長い長い歴史の中で、先祖の歴史を通し、それを学ぶことを通し、体験することをとおし、体に刻んで来たものであったはずであるという確信がパウロにはあるからである。だから、こそ旧約聖書を用いて何度も理屈を込めてローマのユダヤ人に訴えるのであった。核心たる者たちに自覚を促し、神へも自覚の伝搬を周囲に及ぼさんとして・・・。
◆そうしてパウロは、伝道の核心を訴える。まさに先祖伝来言われ続けてきた油注がれし者、救い主が到来し、自ら、我らの罪(神からの離反、的外れ)からの解放、軌道の修復、永遠の世界へのパスポートを信仰のみにより受理されるということを。それは、律法の書自体、そして預言者により証がなされてきたことであったと。
◆(3:22)「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこになんらの差別もない。」 ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪の下(もと)にある。行いによってはそれを完全に成し遂げられず誰も義とはされないのだ。ただ、イエスをキリストと信じる信仰によって、義とされるのであると。それは、かえって律法を確立することにもなるのであると。信仰の法則。全地を創造され、人間をも創造され旧約聖書の天地創造の物語からも救い主の予兆が見られたその記事が今や現実となり、永遠の世界に入ること=死の消滅。全人類の”終わりの始まり”が今や人類に自覚的になってきたと言えるのであった。・・・ Ω