marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(208回目)ローマ人への手紙(8章26節~30節)

2016-12-19 20:44:19 | 日記
◆(8:28)「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」
(8:29)「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子(みこ)のかたちに似たものにしようとして、あらかじめ定めてくださった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」
(8:30)「そして、あらかじめ定めた者たちには、更に栄光を与えてくださったのである。」
◆僕などは、実のところ日本聖書協会の文語聖書(1975)から入ったので!(8:28)「・・・凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。」と格調高そうな言い回しが気に入ってしまっていた。文語もなかなか捨て難い、今でもね・・・。ただし、神がエホバとなっているのだけれど。それからここ読むとよく思い出してしまうのだが、カルヴァンさんが、今ではあまり人気のない”予定説”というのあるが、手紙のこの記事あたりから来たのかなと思ってしまうのだがどうだろうか。いずれにしろ、目には見えない神の霊は、聞いて理解する人には理解されるがそうでない人にはそれなりにということが言えますよということなのだろう。 
◆(8:29)「・・・御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」とは、神の家族に我々は養子として迎え入れられるので、キリストが長男、キリスト者はその弟になるということらしい。いずれ、そのためには、我等は、イエスを信じて「義」とされたのであるとすれば、「きよく」なり、さらに「栄光」に預かるものとさせていただいたということである。
◆「御子(みこ)のかたちに似たものにしようとして・・・」とあるから、生活の中でも、ただ単にハッピーというだけではなく、実際にイエスのかたちにふさわしい生活をして前進しないと行けないと、一歩も二歩も先を歩むような心がけが日々、必要となると思われる。なにもそれは、力んで行うものではなく、(8:26)「御霊(みたま)もまた同じように、弱いわたしたちを助けてくださる。なぜなら、わたしたちはどう祈ってよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるからである。(人それぞれにふさわしい神の御旨(みむね)にかなうとりなしをしてくださるというのである。)
◆イエスを信じて「義」となったら、命のあがなわれることを希望としていつも持ち続け、御霊によって「きよい」生活に励み、御子のかたちに似たものになろうと努めねばならないということになるのだろうか。そうすれば栄光を与えてくださったことがより理解できるようになるということなのだろう。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(207回目)脱線 パウロにおける「罪」の認識について

2016-12-19 18:59:47 | 日記
◆神の摂理という言葉がある。それは、神の計画というものだが、不完全な僕ら人間には後になって理解できることが多い内容であると。万事塞翁が馬という奴に似ているかもしれない。そのときは不幸であっても、後から見れば、深い神の配慮が働いてすべてがその人間にとって益となっているという神の配慮があるという意味だ。今、あなたが教会に通う信者であろうとなかろうと、イエスの声を聞いたとして、実際は困難な事態にあるとしてもイエスに祈り求めるなら、たとえ今が解決できないように見えなくとも最終的にあなたに最もふさわしい事態に導かれていることになるということだ。
◆さて、パウロは異邦人(神の歴史を委ねられたユダヤ人以外のこと)への宣教者となったが、考えるとしかるべき神の摂理があったのだろうなと思わされてしまう。生まれが第一、キリキア州のタルソという町。離散したユダヤ人であろうことは推察できるがよくわからない。けれど、ローマの市民権を生まれつき持っていたということから、裕福なユダヤ人の商人のもとに生まれたのだろうと言われている。ローマの市民権をもっていたということ(生まれつきといっているからこれは必須条件だったらしいラテン語)、ローマ兵と話しをしたことなどからラテン語が話せただろうし、ギリシャ語で討論し、手紙を書き、当時のユダヤの常用語となっていたアラム語でも語った(イエスもアラム語で話したといわれる)。そして、当然、ヘブル語ができたわけだ(聖書が読めるから当然)。向学心旺盛だった彼は、エルサレムのユダヤ人の当時の筆頭の碩学ガマリエルのもとで学びを行うために遊学した。いかに優秀だったかは、当時のユダヤ人大祭司のもとへ行き、キリスト者を捕縛のためにダマスコへの諸会堂あての添え書きを持たせられたことからも窺い知れる。それが途上でまばゆい光の中でイエスに出会う。そして、180度、考えが変わってしまったのだ。
◆パウロは、宗教としてはヘブライズム(ユダヤ教)、政治としてはローマの帝国、そして文化的にはヘレニズムに接して全くの当時のコスモポリタン的な要素を身に着けた、今から思えばまったくキリスト教を世界宗教にすべく選ばれていた人物であったということになるのだ。さて、その彼が、しっかりと「それが私の罪である」と述べている箇所を僕らは、漫然と彼パウロだけの特異なとらえ方であると読み過ごしては決してならないと僕は思う。当時の制限された書き方になってしまっているけれども・・・。よく当たり障りなく、「罪」とは神の導きからの「的外れ」と言われるが、確かにそうなのだろうけれど僕には今一つしっかりとらえきれないのだ。むしろ、パウロが語る「罪」、それはパウロだけのものではなく、人間誰しもが自分の言葉で同様に考え理解しなければ、イエスの十字架の意味が自分のこととして把握することができないのではないかと考えてしまうのである。それは、代々遺伝子を受け継いで来なければ、この地上に生を受けることができない、あらゆる命を持つものの宿命ともいえるものだ。
◇(8:17)「この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」
(8:20)「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」
つまるところ、真に自由になるにはパウロいうところの霊と肉の二元論の、朽ちていく肉からのエクソダス(脱出)となるのである。しかし、この肉があり我があるというこの地上の刹那に、イエスを信じることにより十字架にこの肉はともにつけられその不自由は解放されたのであるとパウロは言う。このハッピーはエンドにはならず、新たなる次元の異なった霊なる戦いへと進んでいくのである。・・・ Ω