marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(206回目)ローマ人への手紙(8章18節~25節)

2016-12-18 19:54:40 | 日記
(8:18)「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。」
(8:19)「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。・・・」
(8:21)「被造物自身にも滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。」
(8:22)「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」
(8:23)「それだけではなく、御霊の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわちからだのあがなわれることを待ち望んでいる。」
(8:24)「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」
(8:25)「もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐してそれを待ち望むのである。」
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◆パウロの話の中でも自然について語る部分は、僕ら今も目にできる事柄なので気に留めてしまう記事ではある。パウロの自然観には、神の被造物であるという事柄がしっかりベースにある。それはやはり、天地創造された神のもと、パラダイスへの帰還が、被造物すべてのものが望んでいるという考えがあるからだ。そして、その希望の基があるからこそ、意識しないにも関わらず、すべての被造物(人間も含めて)は、成長、希望への前進の力をいただいているのであるという科学的にも近い考えがあるようだ。掲題の手紙の文面は「兄弟たちよ」から始まった文面の中にあるから、前提条件として旧約聖書創世記の内容も知りえているであろう人々に語ったものだ。
◇202回目で述べたイエスを信じ、「義」の僕(しもべ)となったら、「きよく」(神学的には「聖化」)ならねばならない(6:19)といい、それが、ここにきて更に「栄光」にあずかることができるというのである。これは、ホーリネスという教派の神学ともなっていくものである。つまり、信仰を持ったなら更に、信仰から信仰へと進展していくという信仰生活をなしていくこと。これが183回目に述べた(1:17)「信仰(ピィステス)に始まり、信仰(ピスティス)に至らせる」の意味なのである(と僕は思う)。
◇(8:22)にある「共にうめき、共に産みの苦しみを続けている」という表現は「今にいたるまで、パラダイスを離れた被造物(御霊の実を持っているわたしたち自身も含め)がその帰還を願って」という言葉が、内なる前置きの言葉としてあることになるのだろう。(8:23)「わたしたち自身も心の中でうめきながら」とあるのは、この地上においては、人間が心から自由にはなれない様々な制約と血と肉という死を迎えることの必須の宿命に対抗すべくという意味合いが含まれているように僕は思ってしまう。それだからこそ、パウロは(8:13)「御霊によってからだの働きを殺すなら、あなた方はいきるであろう。」と激励するのだ。
◆それだからこそ、「兄弟たちよ」と・・・パウロは言うのある。**************
(8:24)「わたしたちは、この望みによって救われているのである。」◇(5:5)「希望は失望に終わることはない。」・・・・・・Ω   大切なものは目に見えないのね!

世界のベストセラーを読む(205回目)ローマ人への手紙(8章12節~17節)

2016-12-18 18:36:18 | 日記
◆(8:13)「もし、肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬ他はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなた方は生きるであろう。(8:14)「すべて、神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」     *********************************
◆ところで、パウロが述べる二元論は、まず第一にパウロ自身がはなはだしく(と僕は思うが)内省した自分の中に罪を見出す(第7章17節)ことがなければ、おそらくその意味(つまり、我らの罪のためにイエスが十字架にかかられた意味)が分からないものになるだろうと思われる。それは、実は難しいのだと思う。多くの本をいくら読んでも、知識をいくら蓄えても、そうしている自分は何かということは、自分の言葉で自覚するしかないのだから。自分を見つめる言葉を持たないと分からないのであるから。まして(8:24)「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるのだろうか。」などということばが、当時の非の打ち所がないパウロから出てくるということは、やはり十字架の言葉がないと出てくるものではないだろう。「十字架の言葉」とは何か、それは、天地創造の全知全能の神の救済史の集約点ということになる。
◆その理由付けとして、パウロは、肉と霊の法則について述べるのだ。確かに、我々はいつかは死ぬことは必然。しかし、霊により体の働きを殺すなら・・・とあることは、我々は、イエスを信じつつもそれ以降の訓練が必要だということなのだろう。それはどういう訓練になるのだろうか。・・・