(8:18)「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。」
(8:19)「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。・・・」
(8:21)「被造物自身にも滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。」
(8:22)「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」
(8:23)「それだけではなく、御霊の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわちからだのあがなわれることを待ち望んでいる。」
(8:24)「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」
(8:25)「もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐してそれを待ち望むのである。」
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◆パウロの話の中でも自然について語る部分は、僕ら今も目にできる事柄なので気に留めてしまう記事ではある。パウロの自然観には、神の被造物であるという事柄がしっかりベースにある。それはやはり、天地創造された神のもと、パラダイスへの帰還が、被造物すべてのものが望んでいるという考えがあるからだ。そして、その希望の基があるからこそ、意識しないにも関わらず、すべての被造物(人間も含めて)は、成長、希望への前進の力をいただいているのであるという科学的にも近い考えがあるようだ。掲題の手紙の文面は「兄弟たちよ」から始まった文面の中にあるから、前提条件として旧約聖書創世記の内容も知りえているであろう人々に語ったものだ。
◇202回目で述べたイエスを信じ、「義」の僕(しもべ)となったら、「きよく」(神学的には「聖化」)ならねばならない(6:19)といい、それが、ここにきて更に「栄光」にあずかることができるというのである。これは、ホーリネスという教派の神学ともなっていくものである。つまり、信仰を持ったなら更に、信仰から信仰へと進展していくという信仰生活をなしていくこと。これが183回目に述べた(1:17)「信仰(ピィステス)に始まり、信仰(ピスティス)に至らせる」の意味なのである(と僕は思う)。
◇(8:22)にある「共にうめき、共に産みの苦しみを続けている」という表現は「今にいたるまで、パラダイスを離れた被造物(御霊の実を持っているわたしたち自身も含め)がその帰還を願って」という言葉が、内なる前置きの言葉としてあることになるのだろう。(8:23)「わたしたち自身も心の中でうめきながら」とあるのは、この地上においては、人間が心から自由にはなれない様々な制約と血と肉という死を迎えることの必須の宿命に対抗すべくという意味合いが含まれているように僕は思ってしまう。それだからこそ、パウロは(8:13)「御霊によってからだの働きを殺すなら、あなた方はいきるであろう。」と激励するのだ。
◆それだからこそ、「兄弟たちよ」と・・・パウロは言うのある。**************
(8:24)「わたしたちは、この望みによって救われているのである。」◇(5:5)「希望は失望に終わることはない。」・・・・・・Ω 大切なものは目に見えないのね!
(8:19)「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。・・・」
(8:21)「被造物自身にも滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。」
(8:22)「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」
(8:23)「それだけではなく、御霊の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわちからだのあがなわれることを待ち望んでいる。」
(8:24)「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」
(8:25)「もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐してそれを待ち望むのである。」
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◆パウロの話の中でも自然について語る部分は、僕ら今も目にできる事柄なので気に留めてしまう記事ではある。パウロの自然観には、神の被造物であるという事柄がしっかりベースにある。それはやはり、天地創造された神のもと、パラダイスへの帰還が、被造物すべてのものが望んでいるという考えがあるからだ。そして、その希望の基があるからこそ、意識しないにも関わらず、すべての被造物(人間も含めて)は、成長、希望への前進の力をいただいているのであるという科学的にも近い考えがあるようだ。掲題の手紙の文面は「兄弟たちよ」から始まった文面の中にあるから、前提条件として旧約聖書創世記の内容も知りえているであろう人々に語ったものだ。
◇202回目で述べたイエスを信じ、「義」の僕(しもべ)となったら、「きよく」(神学的には「聖化」)ならねばならない(6:19)といい、それが、ここにきて更に「栄光」にあずかることができるというのである。これは、ホーリネスという教派の神学ともなっていくものである。つまり、信仰を持ったなら更に、信仰から信仰へと進展していくという信仰生活をなしていくこと。これが183回目に述べた(1:17)「信仰(ピィステス)に始まり、信仰(ピスティス)に至らせる」の意味なのである(と僕は思う)。
◇(8:22)にある「共にうめき、共に産みの苦しみを続けている」という表現は「今にいたるまで、パラダイスを離れた被造物(御霊の実を持っているわたしたち自身も含め)がその帰還を願って」という言葉が、内なる前置きの言葉としてあることになるのだろう。(8:23)「わたしたち自身も心の中でうめきながら」とあるのは、この地上においては、人間が心から自由にはなれない様々な制約と血と肉という死を迎えることの必須の宿命に対抗すべくという意味合いが含まれているように僕は思ってしまう。それだからこそ、パウロは(8:13)「御霊によってからだの働きを殺すなら、あなた方はいきるであろう。」と激励するのだ。
◆それだからこそ、「兄弟たちよ」と・・・パウロは言うのある。**************
(8:24)「わたしたちは、この望みによって救われているのである。」◇(5:5)「希望は失望に終わることはない。」・・・・・・Ω 大切なものは目に見えないのね!