marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(448回目)そのとき彼らはわたしが主であることを知るようになる(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-11-03 08:22:25 | 日記
 掲題の言葉は、旧約聖書エゼキエル書によく出くる神の言葉である。紛争が起こり困難な状況に陥り、その現状を体験させ、神は生きており歴史を動かしていることをその中からイスラエルに知らしめるとの預言の神託である。446回目に、世界に苛立ちを起こすのも彼らは選民(神の)だからなのか、と表題に書いた。紀元前の話の「過越の祭」が今も彼らは世界で行われているように、彼らの神は生きて働いて世界の人々にその存在を知らしめているように思える。・・・で、今朝(2017年11月2日)のNHKのニュース  
◆イスラム原理主義ハマスが「ガザ」地区の境界管理権限の返還を行ったと世界の出来事。ところでどうして地球の裏側のニュースが流れて来るのだろう。僕は「ガザ」という地名を聞くと、旧約聖書 士師記のサムソンとデリラの話を思い出してしまう。そして、先に述べた神は生きて働かれているのであろうと思ってしまうのである。このニュースは、主(神)のご計画の中に有りと言えるのだろうか。(以下 後半で)
◆掲題の小説は第94回芥川賞受賞作でもある。人は憤懣やるかたない出来事に対して、それが物事を考える起爆剤のようにもなるものであるが、対象が悪かったのか、神の戒め事項に肉の思いが引きずられて、結婚してしまったが故の試練なのか、あるいは又、このような形であっても大衆に周知されて、神の民と言われるユダヤ人の地球が終わるまで続けられるであろう儀式に関心を注がせようとされたのかは判らないが小説の中で語られたごとくには決して古くさくはなく、すべて(書くときりが無くなるが)その儀式から始まっていると言っても過言ではないように僕には思われるのである。ひいては、肉体からの離脱、永遠の命への・・・。
◆キリスト「教」などという宗教の範疇に入る枠をすでの越えてしまって、我々は神から離れてしまっているので、その罪と言われる「的はずれ」(これは今風に言えば、神の霊(聖霊)にリンクし生きるためのその厳粛な霊的システムからの逸脱)からの拡散と消滅、エントロピーの拡散消滅を防ぐ錨ともなっているのがその儀式であると僕は思うのである。(新約になり、それはキリストの十字架であり信徒の聖餐である。)
◆それを具現化して現れたのが、イエス・キリストであると僕は思うのである。言葉では収まりきれないもの。それは、人が言葉で捉えてしまったときは、すでに朽ちゆく人の言葉に還元されている訳だから、その時点で霊的真理は消えていっているものである。人の言葉など本当に細やかなものなのだ。 ****** (ルカによる福音書第24章30~32節参照 エマオの途上の落胆する二人の弟子に甦ったイエスが出会う話で僕はこの場面が好きである )
◆さて、今も行われている儀式、小説のその内容、そしてユダヤ人の夫の親族が結婚に反対だったという理由がここにも書かれている
(旧約聖書 士師記第14章1節~ ) 
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1:サムソンはティムナに下って行ったが、そのティムナの一人の女、ペリシテ人の娘に目を引かれた。2:彼は父母のところに行って、「ティムナで、一人の女、ペリシテ人の娘に目を引かれました。どうか彼女をわたしの妻に迎えてください」と言った。3:父母は言った。「お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人(異邦人:コメントは僕)の中から妻を迎えようとは。」だがサムソンは父に、「彼女をわたしの妻として迎えてください。わたしは彼女が好きです」と願った。4:父母はこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。(士師記第14章1節~4節)
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◆イスラエルの士師怪力サムソンは、女に弱かったが、その試練と共に彼らしい最後を華々しく遂げる(映画にもなった)。イスラエルとペリシテが歴史上に「ガザ」という土地で世界史上、繰り広げられるのはこのときの主の御計画から続いているのである(士師記13章5節)。ちなみに「パレスチナ」という言葉は「ペリシテ」が語源となっているのです。 ・・・ Ω