marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(457回目)『日本基督教団信仰告白』と『使徒信条』

2017-11-16 07:23:24 | 日記
 今回のブログは、今年の8月に書いて「下書き」として保留していたものです。

◆旧約聖書は身を制して読まねばならないところもありますが、聖書というのは読む人間の生き様がその解釈に影響してますから、読んで書かれたことが一般化してこう読まねばいけないとか、解釈しなければいけないというようなものではないと僕は今の時点、そう考えます。このようなことが常にすべての解釈についてまわるといっても過言ではありません。神学者といっても解釈が異なったりしますので・・・しかし、おそるに足らずです。イエスの言葉は、一人ひとりに語るのですから。信じて、そのエッセンスを自分の核としていただければ、巷の情勢に漂う事があってもいついかなる時もその錨のをたぐり寄せればイエスの言葉、彼の存在はあなたのそばにおられることを教えてくれます。
◆人それぞれは異なりますが、変わらぬところはで主張すべきことは、誰が語ろうとも同じもので変わらない事柄があります。
 それで、今どこぞのキリスト者に尋ねても返答できることがあるかと思われます。それは、キリスト者は「どういう人を信じているのか」ということに対して、世界共通同じ返事が返ってくるでしょう。それは「使徒信条」と呼ばれているものが適切かなと思います。教派によって礼拝の中では言わない教会もありますが、この中にはイエスはいつの時代のどういう方で、わたしはその方を信じているのだ、の告白文です。
◆しかし、今までの僕のブログの内容からすれば、すべてのしがらみから解放されての、しがらみに当たる部分が日本基督教団組織となりませんか・・・という疑問が当然出てくるかもしれない。
◆はい、そうです・・・教団といえども組織ですからいろいろ多々、様々あります。教団は、それぞれの宗派の合同されてもので、個々の教会ではそれぞれの教派の考えが反映されています。(ここでも、イエスの伝道とその表現に一般化はありません。)
 イエスが言われたこと、それは「自分の足で立ちなさい」ということでした。そしてあなたに「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(ヨハネ伝4:26)と語られることを願っています。
 
日本基督教団信仰告白とその後半に使徒信条を掲載します。後半の「我は天地の造り主・・・」が「使徒信条」と呼ばれている箇所です。

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 『日本基督教団信仰告白』

我らは信じかつ告白す。
  旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
  教会の拠るべき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救い
  につきて、全き知識を我らに与ふる神の言葉にして、信仰と生活との誤りなき
  規範なり。
   主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せられる唯一の神は
  父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救いのために
  人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、
  我らの贖ひとなりたまえり。
   神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して
  義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、
  その御業を成就したまう。
   教会は主キリストの体にして、恵みによりめされたる者の集いなり。教会は公の
  礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、
  愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまうを待ち望む。
  
   我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。

   我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・
  キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ、
  ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、
  陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の
  右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
  我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、
  永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。      アーメン 

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