marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(449回目)真理はわれらを本当に自由にするのか?僕ら異邦人が奇異に感じるイエスの言葉(『過越の祭』米谷みよ子を読む)

2017-11-04 01:37:15 | 日記
 昨日は文化の日。71年前 日本国憲法の産みの親と言われる金森徳次郎が初代館長を努めた国立国会図書館には「真理はわれらを自由にする」と刻まれた石碑があるそうだ。これは昨日の朝のNHKニュース。447回の表題に「真理はあなた方を自由にする」(引用は下記)と書いたが、僕らは人の言葉での真理が如何に言葉だけでは真実としてならしめるに実に不確定なものであるかを特にこの国を考えればその困難を実感させられるように思わされるのである。今の政治を見ても・・・。寄らば大樹の陰、勝てば官軍というような言葉もある・・・。死んで花実が咲くものかという言葉もあれば、過去には死んで靖国で会おうと散華した多くの若人達がいたのでした。僕の住んでいる近くにも神社の石塔に並び軍国の母という方を称える大きな石碑がある。この国でこのような歴史から何を学ぶか。真の歴史を教えられていないところもかなりあるけれど・・・。
◆何を言いたいのか、この国は情緒面が強くて言葉にする以前に心情的に目的を解消させてしまうところがあるのではないだろうか。曰く、勝算が無くてもとにかく手段を人的に精一杯根詰めて尽くしたのだから、あとは天命を待つと言う具合に・・・。第二次大戦開始に天皇に東条英機が涙を流して開戦の決断を申し述べたそうだ。結局、心情的な決断は、今では間違いであるということだ。勝たない闘いはするべきではない、というのが原則である。人の世界は人が結局、処置し結果を出す処まで算段しないと、つまり責任とらないといけないのだというのがキリスト教という宗教からの考えなのである。手っ取り早く言えば、勝算があるように考え算段し、実行せよ、が大前提なのである。さて、長々と書いたのは・・・
◆イバンカさんが来日。どうして、キリスト教国で、夫がユダヤ教とは言え、彼女はユダヤ教に改宗したのかなのだが、彼らの旧約聖書の古くさいと思われても今も行われているその儀式は地上が滅び去るまで(彼らの神が再び現れるまで)続けられるだろうと言うことだ。彼らが体験したきた歴史から、僕らがとても言葉でもって総括するような考えは出てこないその筆舌に尽くしがたい彼らの民族としての体験が(肉体に傷を負ったその体験が)儀式を守り通してきたキモであると言えるのだ。キリストが誕生しそれは今や全世界の異邦人にも及ぶことになったということです。キリストが十字架に掛かるのはまさに過越の祭のときであったのだから・・・。
◆人という生き物は、頭でこうだと決めたところで、決してそれを守り切れるものではないし(だからといって何もしないという訳ではないが)心情として生ききれるものではないと思うわけだ。だが、彼らは違う。旧約のその内容と言えば、彼らは殆ど神の戒めを守れず叱責を神から受けている、そういう歴史がてんこ盛りに書かれているのが聖書であり、身近な対戦に於いても多くの理不尽な残酷な殺され方をしてきたのであった。
◆昨年からのブログでヨハネによる福音書を読んできた。それは、今年がマルチン・ルターの宗教改革から500年の年で(先月2017年10月31日はルターが今から500年前に95ヶ条の質問状を掲げ宗教改革の火ぶたが切って落とされた)、彼は聖書を読むのであればヨハネ伝を読みなさいと勧めているのであった。何度、書いてもいいのですが、これは毎日でも読まれるといい、大きな慰めとなるし奇跡と言われることも何ら不思議なことではなくすべて事実であったということが理解されてくるだろうと思う。
◆ヨハネによる福音書第8章31節~32節に次のようなイエスの言葉があり、キリスト者の間でも好まれる言葉なのですね。
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(8:31) イエスは自分を信じたユダヤ人達に言われた、『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、本当にわたしの弟子(でし)なのである。(8:32)また真理を知るであろう。そして真理は、あなた方に自由を得させるであろう」。
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◆彼らが、モーセの教えを今も守り、そして、イエスは「モーセはわたし(イエス)について書いたのである」(ヨハネ伝5:46)と語ったその言葉に、僕ら異邦人が聞くと奇異に聞こえる「救いはユダヤ人から来るからである」(ヨハネ伝4:22)という言葉がしっかりあることを僕らは忘れてはいけないのだと思うのである。・・・ Ω