marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(452回目)救いはユダヤ人から来るからである(『全体主義の起源』ハンナ・アーレントを読む)

2017-11-09 22:04:57 | 日記
 小難しいそうな古典を取りだしてきたのは、以下の通り・・・
◆まず、一番は、世界の現状、西欧での国のアイデンテティーが崩れて来ていること。そして難民問題。アメリカが保護主義傾向を露骨に呈し、世界の大国の覇権主義に組み込まれるこの国の現状に非常に近くなってきた危機意識を学ぶべきと思われたことです。ハンナ・アーレントはユダヤ人の女性です。ユダヤ人自身の負も指摘する真の戦う知識人と僕は見た。こういう分析は、やはり彼らのような歴史を持たなければ出てこないだろう。そして、世界を実際に変えていく。イエスの「救いはユダヤ人から来るからである」という言葉があるが、善い意味でも悪い意味でも、いずれ全人類は、誰一人としてこの地上の命を終えることを免れる者はいないの訳だから、彼らを反面教師にしても僕らは考えて行かねば凡庸な「悪」に囚われ、自分の首を絞めて行くことになるだろう。
◆世界のベストセラーは今でもダントツの聖書を読んで行くときに、当然のことながら生きて働いている神なのであるから今の僕らが生活までの人類のすべての歴史に神は関わっているのであろうと一応考えられる訳だから、その中で、その生きている神に導かれている人々の生き様というか、その関わりに関心を持つのは、当然かと思う。それは、宗教というジャンルのことだから、何を信仰しようと人の勝手ではないかという訳には実はいかない彼らにとってみれば、僕ら異邦人がいくら喚こうが騒ごうが、第一に生きては死んで、死んでは生きるその世界の舞台そのものが神が創造されたものであるという大前提があるから、意識せずとも人類全ての逃げ道は無いのだということになっているのです
◆その舞台設定は、人間という種が誕生する以前、その創造主の天のパラダイスを暗示するところから、最終この舞台設定である地球の終わりまでが考察されているとなれば、まさに異邦人にとっては逃げ場がない。霊的世界から地上へ、そして、神の霊的世界への連続が、読めば一続きなのである。(使徒信条に「・・・十字架に掛かり陰府にくだり・・・」とあるが、ここでイエスは死後の霊的世界にも福音を宣べ伝えたという解釈がなされているのです)無論、僕らはこの三次元の中で選択肢のないこの不自由な肉体からの脱却を求めてうごめいているという解釈となるのであり、その霊的な移行(天国OR浄土へ)があると信じつつ(それが全ての宗教の基となっているのであろうが)、実に曖昧模糊となっているところに問題が山積、その解決がそれぞれの人に与えられた人生の宿題となっていると僕は考えるのです。ここで(宗教などということを解消して)事実、イエスは「わたしが解決そのものである」と明確に語っていることなのである。つまり、人種、民族云々以上の全ての人という種のレベル、神が御自信の似姿に創造されし人間一人一人に関わる、最高位の決断レベルに移行された判断が人に求められているということを認識するべきなのである。(・・・ちょと偉そうに力んでみた  
◆さて、彼ら旧約の民は、全世界への神の存在の反面教師、よって大変な重責を背負わされていると考えられる。しかし、彼らの最終の願いは、神に呼ばれし者(ここでの神は「旧約の神」、イエスは、預言者の一人としか見られていない)は永遠の命をもつ、です。神は旧約聖書(彼らにすると聖書そのもの)の中で神は語られていたではないか、わたしは彼らを必ず呼び集めると・・・。先のブログで書いたが、1948年あの地にイスラエル国家が樹立した。紀元前の預言が成就したことへの騒ぎは世界中の驚きとなった。(キリスト教は世界に広まり、この「再び集める」と言われた神の仰せが、当然、世界中の信者が実際エルサレムに行くことは出来んだろうということで、それは「霊的な意味合いにおける天のエルサレム(ここに制限はない)に集められる」という解釈となっている)
◆さて、そこに至るまで「人は何か、世界はどうなっているのか、神の民の我々はなぜこのような境遇にあわせられるのか?」というようなことが、神に問う、そして聞くということなしには、やっていかれない(彼らにしてみれば腹の底からうめくようにその苦しみを言葉で発露し解決を求めて行かねばならない運命というようなものを背負わされていると思わざるを得ないのである)と僕は考えるのだ。しかし、キリストとなったイエスは「わたしを見たのは父(なる神)を見たのだ」と言い、そのイエスを否定し十字架に掛け「血は我々に振りかかっても良い」と言い放った故なのか、ユダヤ人自身の歴史はあまりに過酷だったのではないだろうか。・・・ 続く