◆信仰は、知識も必要だが自分の生い立ちもすべて、その個人の中の生き様をフィルターとして、言葉として発せられてくるものです。ですから、人が学問により、自らの言葉で自己肯定化を始めたときには、宗教には背後に神という存在が控えているので、よく注意しないといけない。人間科学などという本をかじり読みすると、人という生き物の分析として、攻撃性が筆頭に挙げられている。それは、人は生き物が生きるには、正しいとかそうでないとか以前に、強烈な自己肯定があるからである。よって、障害になる事柄は、排他するか否定し、攻撃へと向かう。乱暴な書き方だが、すべての優位性を基とする考えが人にはあるものであり、それがないと又、人は不安になるものであるからだ。そして、これは本人が幼少の頃の環境や指導され方によるものだ。(エピジェネディクス)◆キリスト者は、本来、人が、神に対し罪人などと語られるから、自己省察をし、その攻撃性を自分の否定性の部分との戦いに向ける傾向がある。しかし、一旦、受け入れ、肯定的になると注意しないとその攻撃が、他人に向けられることがある。神学を語る学者が、他を批判するときには、要注意である。『日本の神学』という本は、再版されないだろう。学歴があられる学者さんだけに、誰もが文句は言わないだろうが(これだから困るのだが)、古屋氏の文はすなおに受け取るととてもひっかかりが残る。哲学に負けているだろうと思う。勝てば官軍のような批判精神は養われるだろうが、その養われる判断基準が、どこから来たかと言えば?である。内村の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』を素直に読めば、別に肩を持つわけではないが、古屋氏のような批判は当時の個人の信仰を戦後の評論家が批判しているような次元と時間が異なることに気が付かず、つついているようにしか思えてならない。イエスの言葉を用いて批判するところなどは、かなり違うのではないかと思う。◆イエスご自身が「失われたイスラエルの羊に遣わされてきたを第一に語り」責任を感じていたように、又、パウロが「同族の為ならこの身が呪われてキリストから離れてもいとわない」とまで言ったのことに古屋氏は、二人の主人に兼ね仕えることはできないのではないか、と言われるのかしら? 内村鑑三が「墓石にはこう彫ってくれ」といった内容は次の通りである。***「I for Japan, Japan for the world, The word for Chirst, And all for God. Kanzo Uchimura (われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして世界は神のため。内村鑑三)」