marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(806回) (その4)評論家小林秀雄が大江健三郎作品をコケにした理由

2021-02-20 18:03:40 | 小説

◆彼の作品を読み通すには、副読本として写真の『私という小説家の作り方』が必要と書いた理由について。第一には掲題のことを簡単に述べたい。それは、この文庫本(平成13年4月1日初版)の第5章 「この方法を長らく求めた来た」<p95>に書いてあることだ。「同時代ゲーム」という作品の書き出しを書いた後にである。作者はこの書き出しが気にいってたらしく、しかし、先の僕が気分が悪くなるというのが、評論家小林秀雄と無論同じなんてものではないだろうけれど、どうも盆暗の僕の頭では受け付けないと思ったこと。◆僕の思うところの結論を簡単に述べようと思う。小林がコケに評価したこと、それと僕がいらだつことの理由を次回に。(それだけでもいくらもとめどなく書いてしまいそうなのであるが。)それはひとつに、小林が「ベルグソン」をしばし、読んでいた人であるということである。ベルグソンを知っている人は、哲学的にどういう路線の人か知っている筈である。西洋においては、この流れの中で大江が影響を受けたジャン・ポール・サルトルが出てくるのである。大江の引用の中には、無論、この文庫の中にもベルグソンの名前はでてこない。いきなりの飛躍としてサルトルが出現し、文学的に実験をしているように僕には思われてならない。海外の引用は多くあるものの日本の文学の採用が殆どない。大江は60歳を過ぎてもなお、日本古来の美学なんぞに目もくれず、技巧的、恣意的な文学的実験にまい進していることに小林はこれはいかんと思ったのだろうことは推論できる。◆大江は「小説の方法」にとにかく関心を寄せる。であるから「異化」を気にかけ創作を心がけると言う。この作家は引用作品の表層からインスピレーションを受ける。しかし、その評論家は人の創作の深層に迫ろうと常に心がけている人である。大江は、こう述べる。「批評家に頼るよりも、われわれはそういう批評に対して、自分に自ら問うがいい。これは充分に異化されているかと問いかけてみればいいのだ。そのようにして読み直してみて、すぐさま書き直しのペンが動き始めるようであればすでにあなたは小説家である。」(p93) と。あくまで手法に拘るのだ。