marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(794回) 神学者、青野太潮先生への手紙②

2021-02-02 11:03:36 | 思想・哲学

先の続きです。◆しかし、どうなのでしょうか。旧約聖書には当初から、神に犠牲をささげる燔祭という儀式がその意味合いも含め、地下水脈のように流れてきていることです。傷なき犠牲が人の罪、その他、もろもろの代理のように捧げられるという儀式が神への応答として行われてきたし、又、アブラハムがその子イサクを神に燔祭として捧げれるという行為が行われようとしたくらいですからイエスがそれを知らないなんてことはあり得ない、というのが僕の最初の答えです。つまり反論です。ただ、「十字架につけられたるままのキリスト」でもあり得るという点は、重要ですし納得するところです。実は、僕が重要と思っているのは地上におけるその二重性なのです。一方は、永遠の命の基を付与され霊的な次元での希求を求め、他方、この地上の苦しみの中でうごめく命ある創造されし人類。イエスの十字架上の叫びは、まさにその二重性の狭間の頂点なのであろうということです。地上の人の哲学は神学の僕であると言われるその要は実にこの点にあると言って過言ではない。◆その②は、十字架上の叫びです。「我が神、我が神、何ぞ我を見捨てたもうや!」という十字架上の叫び。それは詩編22章の第1節である。真の人と言われたイエスが、神から見捨てられ、全く絶望の内に死んだ、ということは、人の絶望の極みを体現し、人が苦しみの絶頂を体現し死ぬようなことがあっても、イエスはその苦しみを理解された、と解釈するということができるというのは理解できることです。しかし、僕の反論の一つは、もともとユダヤ人は、詩編を唱えるときに、冒頭句を大きな声で語り、以降は早口で唱えるのが通常のようですから、当然ユダヤ人であったイエスは、そのしきたりどおりに、詩編22編を十字架上で、すべて唱えていたのだ、したがって、22編の最後の句も当然、イエスの射程に含まれて唱えられたと僕は考えます。詩編の朗読に関しては、ユダヤ人で社会科学者でもあったエンリッヒ・フロムが、ユダヤ人の詩編の唱え方についても、そのように考えていましたし(イエスの十字架上の言葉を何故そのように捉えないのかと)、実際、現在でもユダヤ学の日本の学者が現地で体験したとの文書を読んだからです。◆詩編22章の最後の3節を書いて終わります。「29節:地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。30節:子々孫々、主に仕え、人々は主のことを来るべき代まで語り伝え、31節:主がなされたその救いを後に生まれる民に述べ伝えるでしょう。」・・・イエスの死はキリスト教として実際、そのように伝えられてきたのではなかったでしょうか。・・・


世界のベストセラーを読む(793回) 神学者、青野太潮先生への手紙①

2021-02-02 08:04:28 | 思想・哲学

◆僕が当時、青野先生に出した手紙の内容は2点あります。返事は便せん3枚にびっしり手書きでいただきました。・・・キリスト教を知るための本は多数ありますが、普段の方が、それらの多くの本を読まれると、ひっくり返る内容が多くあるのではと思います。しかし、よく考えれば、まずその書名が『どうよむか・・・』なのですね。これが正しいのだ、などとは言っていないことなのです。◆僕が書いた質問事項の2点は、①イエスは自分の十字架を人々の贖罪のためであるなどとは、思ってはいなかった、と言われているところなのです。これはきわめてデリケートな部分です。まんま、イエスは自分の死の結末を理解していた(シナリを読んで理解していた)役者だったのか、いや、そんことはないだろう、というのが著者のいわんとすることなのです。②それに関連する記事で十字架上の言葉で「わが神、わが神、何ぞ我を見捨てたもうや!」は、これはイエスの絶望の叫びだったと決定していることです。初期に書かれたマルコ伝に書かれているイエスの言葉は、詩編22編の冒頭句です。◆問題は①です。これがもし、イエスご自身が、ご自身の十字架を人々の贖罪死であることなどとは思っていなかったとすれば、新約聖書を読む限り、イエスご自身がそのように言われている箇所が多数あることは、死の後で書かれた福音書だから、記者がそう過去からの聖書の謂れからそのように言ったとイエスの口に入れて書いたものだということになるのか、ということです。キリスト教信仰とは、選ばれた使徒たちが伝統来から孵化された思いをそのパターンに合わせるように信仰することが福音だと解釈することなのか。本来のイエスの実際の優先されるべき思いは、神の命をふきこまれ、創造されし全人類が、インマヌエル(神ともにいます)のその現事実の証明が著された故の、その十字架であったのではないか、ということです。乱暴な解説をすれば、贖罪は後から弟子たちがその伝統の中で担われてきた聖書解釈に追加して、解釈したものであろうとしていることです。つまるところ、あと解釈でその人間のいいとこどりのような解釈にのみしがみついて、これがあったから、我々はハッピーなのだ、ということは実際に生きる辛辣な世界の事実の中でぬるくなるだけだろうと。著者は「逆説的」という表現を至る所に用います。「十字架の死」は「今もイエスは十字架に貼りつかれて苦しみの上にあるのだ」ということを忘れてはいけないと、それは使徒パウロが常に思っていたことだったと語っている真の意味なのである、ということなのだと語っていることなのです。・・・続く


世界のベストセラーを読む(792回) キリスト教神学は進化する

2021-02-02 06:00:00 | 思想・哲学

◆前ブログ、再版された書名は『どう読むか、新約聖書』(ヨベル社)となって、大貫 隆先生の書評は週刊読書人2021.1.29号ですが、僕が19年前、著者に書いた手紙で、読んだ書名は『どう読むか、聖書』(朝日選書490)でした。書評からすると、僕が読んだものの再販、内容が同じものと思われました。無論、再販に当たり少しく直されておられるところもあろうかと思われますが、本の主張に変化はないものと思われます。これについては、東京神学大学の現学長であられる芳賀力(つとむ)氏らが、講演でこの本の内容を取り上げ、何故、イエスの死が贖罪でないのかと誰も反論しないのか、と最近、youtubeでもその内容(声のみ)の聴くことができました。◆先の添付の内容をよく読まれると、いささか驚かれるかと思います。一般に考えられているイエスの十字架、贖罪論と、又、異質の解釈がなされているからです。 ここで大切なことは、歴史を経て来て、先に述べたように神学はとても進化してきています。それは、解釈する人間その思考そのものの理解というものどういうものかという理解が進んだこと。ですから、これも先に書いた「神学は哲学に負けてはいけない」と書いた内容です。言葉の定義、時代の雰囲気、伝統、因習、時代などなど、話す者がいて、聴く者がいる。それらの状況設定は当時の状況で判断しなくては、真の解釈とはならないし、神の言葉であるとされるイエスが話された言葉の内容は、次元が重層化しているといったらいいか、直接に肉の次元(3次元と言ったらいいか)では解釈が困難な内容がある。単に解釈しようとすればやけどする(本来の言わんとすることを誤ってしまう)内容が含まれていると思われるからです。◆ここで、書評を読めば、本を読む我々がどの位置にいるのかを慎重に見極めないと短絡的に、あと理解を鵜呑みにしてこうだと早合点してしまう、まさに判断のその縦の裂け目の目の付け所が重要であると言わんとして、真のイエスの苦難の意味を読みとろうとしていることなのです。19年前に僕が著者に出した手紙の内容は・・・続く