marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(527回目) 休憩、田舎のお墓を掃除してきた・・・

2018-07-21 18:47:19 | 日記
 田舎にあるお墓の掃除をしてきた。汚れを落とし、周りの草むしりをして、お水を沢山掛けてきた。

 それから、田んぼと畑を任せてお願いしている人に挨拶をし、帰りに手入れがそこだけされていない畑、そこには今年、梅が沢山なっていると話を聞き、行ってみた。それから帰り道、僕が生まれた家の跡を見てきた。
 
 その家はすでになく今は更地になっている。の一番入り口にあたる小さな20坪くらいになってしまったその処の脇には僕が生まれる前から広さ2畳ほどの御堂が建っているが、村人が手入れしているのか建て直しが行われて今はきれいになって、朝から暑い今日などは、出入りの引き戸が少し開かれていた。
 
 家からは東に遠くそれほど高くはないが、森山と呼んでいた山が見え、裏庭には広い芦の沢山生えた沼があって、その山から朝日が昇ってくるのを川の音、川と言っても幅が1メートル程度の狭い 家の横を流れる堰きの流れの音を聞いて目覚めた記憶が残っている。幼稚園にあがる前の小さな頃のこと。そのとき真空管ラジオからは、かばや兄弟の小鳥のさえずりを紹介する番組がいつも流れていた記憶がある。
今は、その沼は全て埋め立てられ住宅が建って、昔、そこに広い沼があったなどという面影は一つも見られない。家の間に遠く、森山が今も変わらずたっている。


 こういう生またころの場所が、山や野原、田んぼや畑がある場所で育つと、小さなころの事でもその場所に行くと何故か不思議に地や森の精霊のような感じに包まれていくような想いにさせられる。歳を重ねると、自然の特に、木々や草花の変化に不思議に引かれるものがある。田舎の自然にゆっくり浸りたいというような思いにさせられる。


大江健三郎が森や木や、故郷の話をときおり題材に用いるのは、何故かそのような想いに感ずることがあるからなのだろうな、などと思って見たりしていた。
 
(写真はクリックすると大きくなります)
※添付写真は、遠くから見た森山、僕の生まれた家はずうと山に近い。流しの窓ガラス全面にこの山が見えた。そして、陽が昇り窓ガラスが光り、堰の流れの音が絶えず聞こえた。玄関周辺の足下には松葉ボタンの花が沢山さいていた。家の裏手の建屋の合間に見える山の写真では少しダサイので遠くからのを掲載。

※写真の2と3枚目。あじさいの花の色は、咲いている土の酸、アルカリによって、赤や青になると聞いていたが、田舎で白いあじさいを見つけた。それが咲く林の奥に家がある?! 畑仕事の合間の休憩に使われているのだろうと思う。不思議な森の話が沢山生まれそうな気持ちがしてきた。

※4枚目。こういう場面に出逢ったのは2回目、この空間を伸びているツタの長さは優に2メートル以上はある。この先を求める方向性はどうして決めているのだろう。そして、このツタを支える重力に逆らう力はどうして発生しているのだろう。もう、限界だ、探せない、届かないといってギブアップすることがあるのだろうか、そんなことが気になって仕方がなかった。 ・・・・ 


世界のベストセラーを読む(526回目)(その5)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 メソジスト教派のメッセージ  福音の成果 

2018-07-20 07:37:28 | 日記
 説教は、今回で終わります。

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◆神との生ける交わりを味わうとき、私たちの視界は大きく広げられていきます。教会でどうすごすか、ということから、日常生活のただ中でどう福音に生きるかということに視点が広げられて行くのです。私たちの日常的な一切の事柄を、すべて神御自信への経験と献身の事柄へと変えてしまう。日常の他愛もない一言、それは教会の中の交わりでも同じことです。礼拝後のほんの他愛もない挨拶程度の言葉のかわし方であったとしても、それら一つ一つが、すべて訓練、献身の事柄へと変えられているという経験。これが礼拝で恵みを受ける訓練の成果だと思います。独りよがりの召命から共同体全体で共有する召命。教職の召命然り、みなさん一人ひとりがもっておられる「イエスはキリストである」と告白することへの召し出し。これらすべては、この群全体で共有することの出来る召命感となってはじめて意味を持つのだということ。そのただ中に、ただ唯一の十字架が横たわっていることを私たちは知るのです。

◆「おのが十字架を取りて我に従え。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のためまた福音のために命を失うものはそれを救うのである」。主ははっきりと仰せになりました。自分自身の思いに死にたいと思います。砕かれたいと思います。「主イエスはキリストである」という告白をし、洗礼を受けた時点で私たちはもう砕かれています。ペトロの告白の文言の正しさではなくてその告白の背後にある本当の出来事を私たちは自覚し、共有して歩みたいと思います。

◆****130年の歩みを想い起こし、今までそうであったように、今も、そしてこれからも、祈りあい、励まし合って、十字架の道を共に歩む召命を共有しつつ、約束された復活のいのちに与るその日、主が再び来られる終わりの日まで、共に「地上を旅する神の民」として歩み続けましょう。 (終わり)

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 現在、教会での讃美歌21の「475番」は弟のチャールズ・ウエスレーが作詞したものです。メロディーも好きですね。
 その4節に今回の説教題と全く同じ文言があります。「きよめを受けつつ、栄えに進み」

 実践神学では、メソジスト教派のそれはもっとも優れたものだろうと僕は思っているのです。・・・ Ω  

世界のベストセラーを読む(525回目)(その4)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 キリスト者の前進なる生き方

2018-07-19 06:51:43 | 日記
  説教、メッセージの続きです。今、このブログで語られているのは、教派でいえば、メソジストの伝統に基づく説教です。日本で知られているは青山学院大学が、たしかそうでした。ジョン・ウェスレーの像が構内のどこかに建っていました。弟のチャールズも讃美歌を沢山作り、今も世界中の教会で歌われている。で、続き・・・  (文中下線は僕です)

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◆ウイリアム・ローはキリスト者の目的について、この書物の中で記しています。聖なる訓練の道のりであり、堕落した魂の癒やしであり、回復である。そしてより高い次元での幸福。私たちの日常の物質的な豊かさとか、感情が満たされるということを越えたところにある、天的な幸福。そういうものへと私たちを備えるものだと。そしてこの目的のために、どういう手段が必要なのか。私たちはキリスト者としてどう生きるべきかということについて語ります。祈り、黙想、御言葉の学び、あるいは断食といったこと、それから、他でもない主日ごとの聖餐の恵みに与ること、これらはすべて恵みの手段である。また、一日の終わりに今日の言動を振り返るとか、そういうことで自己を吟味し、ときには高ぶる自分を否定し、そして言葉を慎むように努める。行いを謹んで実行し、それを整えていくために必要な規律について。規律によって追い立てられるのではなくて、私たちが恵みの生活をするのに必要な規律を備える、ということが語られています。そしてそれは教職だけでなくてすべてのキリスト者にすすめられていることだと言われています。私たちに与えられている環境、人間関係、家庭、状況、知識、経験、あらゆるすべての事柄をこの目的達成のために用いるのであると。

◆しかし、このすすめに導かれるときに、忘れてはならないことがある。形だけではなくて、私たちが内側から満ちあふれる力によって押し出されなければ、どんなに外面的な信仰の形態を私たちがもち得たとしてもそれは、意味をなさない。私たちはそのことを心して、この課題に当たるべきだと思います。私たちを整え、私たちを導き、遣わしてくださるのは、神御自身です。この神が、私たちと共に立って下さる。一緒に歩んで下さる。このことを私たちは礼拝を通して受け止める訓練を続けていきたいと思います。神との生ける交わりは一体何処にその接点があるのか。主の食卓であり、そして食卓を囲んで絶えず守られている礼拝、その礼拝全体を通して語られる神の御言葉以外にありません。

 *********************************** ・・・ 続く 次回で終わります。 

世界のベストセラーを読む(524回目)(その3)「潔めを受けつつ、栄えに進み」  キリスト者の前進なる生き方

2018-07-18 21:03:43 | 日記
 今回は、僕のコメントのみです。メッセージの続きは次回の ◆ から です。
 
・・・前回のここまで説教されて、話されている教会の歴史を語ります。信仰は、あくまで個人のものであるから、第三者からは如何とも評価の出来ないものである。確かにそうなのですが、優先順はあくまで横(地)を先に見るのではなく、縦(天)を見る。そして、その十字の交差に自分がいて、その根元は自分の足下の地面に食い込んで立っているということ。そして、それには時間軸が加わります。天上界(天国)から地上へ、天地創造、人間の創造、神の存在を教え知らしめる為のヘブル人の選民、そしてその歴史(これが旧約聖書)、世界の人間への救済の為のキリストの派遣(現代はその時代を生きている)が加わります。そして、この時代、言葉はわれわれの実際の生活に、考えに、人が責任を持つことによって世の中を変えてきたと、しかもそれでもやはり、欠陥のある人間には自らの救済は困難であろうと・・・キリスト者はこの世とは異なる暦を持って生きていると説教者は語り始めました。この世とは異なる暦とは、天地創造来から天上界に帰還するまで続いているカレンダーです。キリスト教では、救われるとかいいけれど、そもそも何かいな・・・という人が実は殆どな筈、で少なくとも旧約の民の歴史とは永遠の昔の天地創造以前の天国への帰還の意味が、いつも込められているという考える上での措定、大前提を持っているのです。そして、天地創造以降の歴史が旧約聖書、ユダヤ人にとっては聖書そのものに著されていると信じていることになります。

 プロテスタントの歴史に中で、教派に分かれ、その時代、時代に理由があったのですが、そこに居たのも群を構成する人間でした。その時代に生きたキリスト者が啓示を受けて教派に形成されてきたとも考えられますが、その「人というものは、まさに時代によってもいかなるものであるのか」ということも考える上で、霊的な意味合いで大きな示唆を受けます。そこに、キリスト者という枠が解消されて、全て真なる神を求めている人びとにメッセージが降されて来ている、そういう時代が広がりつつあるのだと言えるかも知れません。

「潔めを受けつつ、栄えに進み」との表題は、教派で言えばジョン・ウエスレーの創設した「メソジスト」であることはすでに理解された方がおられるかも知れません。この後、説教者は、話の中盤に今生を生きて行くキリスト者に何を心がけなければならないかを18世紀の英国でウェスレーたちを生かして止まなかった書物、ウイリアム・ローという一人の英国教会(聖公会)の司祭が書いた書物を紹介し語ります。僕が思うに、人が生きる上での合理性(経済的な意味ではなく肉体と魂の関係での上での)、そして、古代ユダヤから生活に於いて衛生を心がけた民であったこと(これはまさに「聖書」の「聖」であり、「神、聖なれば汝らも聖なるべし」という戒めの実生活での遵守事項が沢山あった。余談だがヨーロッパでまさにペストが流行った時、多くのユダヤ人が死を免れたのは手を洗うことを神の戒めとして心がけていたらしいという話です)、これがイエスが来られて、いわば実際の生活を通して「心の中まで衛生を心がけ生きること」、聖書を研究しそこを見出していった人びと、その教派が「ホーリネス」であり「メソジスト」であると言えるのではないかと思います。これはこれで、歴史の中でのメソッドつまり、律儀に生活することが、18世紀の英国では必要だった訳で、これは事実、英国の大変多くの人びとの心に変革をもたらしました。

 次回 ◆説教の続き(抜粋)です。・・・ 続き 

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世界のベストセラーを読む(523回目)(その2)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 告白の背後にある本当の出来事に目を留める

2018-07-17 06:00:00 | 日記
・・・前回のメッセージの続き、しかし、ここで僕がいずれのメッセージについても思うのだが、その内容でメッセンジャーが白か黒かの判断を生身の人として箇所されるの言及は(聖職者といえども何処までいっても欠けのある人間なのであるから)やはり、僕らには分からない事ではないのか・・・という疑問がデリケートな部分であるが感じてしまうのではないだろうか(列車の外にいる人びとには特に)。いずれの宗教性に関してもだが異邦人たる大衆から言えば、自己を見失う恐れが生じてくる部分も少し見られてくるが、普段の僕らにとっては、だからこそイエスが言われた黄金律、「精神を尽くし、思いを尽くし、主たる汝の神を愛せよ」であるし、「あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい」となるし、僕らにはその宿題、つまりそう思う、願うという「自分とは何なのか」という、対話する自分の言葉の模索が、日々の祈りともなってくると言っても過言ではないのであると僕は思うのです。早い話、私という今を生き、言葉を聞いている自分という媒体そのものについてです・・・・それを突き抜ける為には十字架での彼の死を自分の言葉で捉えきることが条件となる・・・さて、雑念は払って説教の続き(抜粋)です。

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◆しかし、その問いについて私たちは、そんなことは知らないし、聞いたこともないかのように振る舞うのです。神の裁きを思います。それは正しいことです。しかしそれ故に清くない自分があまりにも鮮烈で、それにつまずいてしまう。にもかかわらずです。厳然たる事実として、主が十字架を背負って歩まれたということは存在する。しかも主はこのことを、誤解の余地がない程までにはっきりと、簡潔に明瞭に力強くお語りになったということです。しかもこの後二度三度となく、受難の予告を弟子たちの前で繰り返しておられる。その度毎に、必ず主は「おのが十字架を取りて我に従え」という招きをもって語っておられるということです。私たちはこの事実に目をそらすことはできない。
◆「主イエスはキリストだ」。こう告白する私たちは必然的に「おのが十字架を取りて我に従え」というこのキリストの御言葉に拘束されて歩むのです。これから私たちがキリスト者として歩む一歩一歩は、十字架のキリストが歩まれたのと同じ道を一緒に歩んで行くのです。そしてこの主イエスをキリストだと告白した者が必然的にキリストの十字架の道に集められます。そこにはキリストを中心にして一つにされた共同体が生まれるのです。それが教会です。キリストの身体に結び合わされた一人ひとりが共同体を形成する枝なのです。
◆私たちはこの信仰の告白と共同体との関係というものを旧約聖書の中にいくらでも見出すことができます。私たちの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブの神、そしてモーセを通して私たちをエジプトから導き出して下さった神。出エジプトの出来事を貫いて、この信仰の告白が共同体全体で共有されている。そしてこの共同体がただ滅ぼされるためにだけに荒れ野に導き出されたのではない。そのことを群れ全体が知っているのです。やがて約束の地に導かれるということを私たちが思いもしないような、計り知ることの出来ないような大きな恵みに与らせてくださるということを私たちは知っているのです。苦難の先にある希望。それ故教会も十字架の道を共有し共に歩むということ、しかも確かなる約束、希望を見据えて共に一つ目当てに向かって歩み続ける群。ここに教会の本質が明らかになるのです。

 ************************ ・・・続く