marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(650回) 朝から雨。’20年4月10日受難日、金曜日・・・イエスの死。

2020-04-10 21:33:20 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

****昼の12時になると、全地は暗くなり、それが 3時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリアを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海面に酸いブドウ酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリアが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そしてイエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当にこの人は神の子だった」と言った。(マルコによる福音書第 15章33~39節)***************

◆マルコの福音書は、四福音書の中で最も初めに書かれたものだと言われている。僕は12弟子の中にはいなかったが、マルコという人間が好きなのだ。最後の晩餐を行った場所は、マルコの母親の家だったと言われているし、(宿屋か何かを営んでいたのだろう)、パウロと伝道を行ったバルナバはいとこにあたる。伝道の途中でマルコはその大変さからかエルサレムに一人で帰ったりするが、後々につたなくてもギリシャ語ができたためかパウロを助けているし、イエスの昇天後、最もまじかにいたペテロのそばで、直接に話を聴き、始めてギリシャ語福音書を著したと言われている。私の愛する子、マルコと呼ばれたのであった。エルサレム神殿が陥落する末期70年ころと言われている。一説にアレキサンドリアで殉教したと言われている。

◆神の壮大なドラマ・・・旧約の時代の先理解。彼らユダヤ人の歴史は天地創造から始まっているのだ。「わが神、わが神・・・」は旧約の詩編22章の冒頭句である。是非、最後まで読まれたし。ユダヤ人は現在でも詩編の冒頭句を強調し、その詩編のすべての意味を最後までのこととしてそらんじているという。(ユダヤ人社会学者であったE・フロムはそうはっきり述べている)とすれば、今、読む僕らも「彼はやはり神の子だったのだろう」という恐れのようなものを感ずるのではないか。また、最後まで読み取らなくとも、神学者の中には、人の罪への同化の体現、神からも捨てられるような人の絶望の極みをこの時、イエスが体現されたのだという解釈をする人もいる。命を与える神からの見放された絶望の人々をも救うためにと・・・。

◆エリアとは、旧約のあの著名な預言者ではないか。旧約聖書の最後の預言者マラキ書の最後を読みたまえ。23節「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリアをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。・・・」とある。イエスが来られるまでいかほどの時間が待たれたのだろう、彼らは旧約時代の預言者の言葉を生きた言葉として覚えているのだ。そして2020年の現代もである。

◆神殿の中の奥の至聖所を隔てる垂れ幕が裂けた・・・というのである。イエスの死は、神の至聖所、つまり神聖な霊のおおもとの最も秘儀とされる命あるものの究極の仕組みが、今や全人類に解放されたと見てとれるのだ。永遠に生きる、天地創以来の万物のすべての命の源へのシステムが解放されて、今や求める者はすべてに開放され、すべての被造物が永遠にかの地で存在あらしめる根源の扉が解放されたというのだ。そのことに対し、異邦人であるローマ兵が宗教というせせこましいいジャンルに属するようなものではない全宇宙万物の創造主、その神の子であったと認めたのだった。・・・・全世界は、この事件から光を求めて一方向性に動き出したのである。今もそれは、ひたすら前進しているのである。最後に詩編22編の終わりを書いて締めくくりとします。********

「地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、塵にくだった者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」(詩編22編28節~32節)・・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(649回) "20年4月9日今日は洗足木曜日! カミュ小説「ペスト」から

2020-04-09 09:29:34 | 日記

◆長くなりそうなので647回に記載の退任牧師からの講演資料の紹介は来週以降と致します。今回、採用も多く文字も小さめ・・・。 

コロナが騒がれる以前から僕がブログで紹介してきたカミュの「ペスト」について、今朝NHKニュースで140万部も売れていますと。小説はペスト発生によりロックダウン(都市閉鎖)が発生した彼の故郷アルジェリアの一都市が舞台だったから。この小説の後半に医師リューと「手帳」記者タルーの会話がでてくる。そのタルーの語る会話の一部に最もカミュの不条理の哲学と言われる彼の思いが語られているし、僕がいつも思うカトリックでなければ、彼の語る内容は、それがまさにプロテスタントで使徒パウロの思いにも近いものだったろうと思ったりしたものだ。

◆「神」という言葉の概念、その方を理解してしまっているというゴミのような人の先概念がいかに不自由を自分に課しているかも知られるだろう。パウロは、キリストの霊に遮られ、西へ向かった。人の言葉である哲学の国、当時のマケドニアへ、そしてローマ法という人の世界を律する当時、世界の道はローマへ続くと言われたその国に導かれそこで殉教した。これがいかに大きな出来事となったか。西洋哲学史などを学びは、その根源である一人のあの十字架にかかった男の解明からの 人間の言葉、その理解、その歴史、その人と人の世界のありようの解明の歴史でもあったと言えるだろう。それは、まだ続いているし、書かれたことがどう解釈しようが現に世界におこりつつあるように思われる。(※今、僕は東へ向かった神を信じていた集団が日本に来ていたことに関心を寄せている)

◆生きていると言われたあのイエスという男は、キリスト歴’20年の今晩は、弟子たちの足を洗ったとされる。明日が十字架にかかった金曜日となる。イエスは言われた「こんなに共にいたのに分からないのか。私を見たのは父を見たのである。私の姿は見えなくなるが、聖霊を送ろう、それがあなた方にすべてを教えるであろう」と。*********以下、新潮文庫 カミュの「ペスト」から記者タルーの医師リューへの語り

「ーーーーただ、僕はこういうことだけを知っているーーーー今後はもうペスト患者にならないように、なすべきことをなさねばならないのだ。それだけがただ一つ、心の平和を、あるいはそれが得られなければ恥ずかしいから死を、期待させてくれるものなのだ。これこそ人々をいたわることができるもの、彼らを救えないまでも、ともかくできるだけ危害を加えないようにして、時には多少いいことさえしてやれるものなのだ。そうして、そういう理由で、僕は、直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心したのだ。・・・同じ理由でまた、この疫病からも僕はなんにもあらためて知るところはないし、あるとすれば、君たちのそばで、そいつと戦わねばならないということだけだ。僕は確実な知識によって知っているんだが(そうなんだ、リュー、僕は人生についてすべて知りつくしている、それは君の目にも明らかだろう)、誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ。なぜかと言えば、誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうして、ひっきりなしに自分に警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、他のものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけてしまうようなことになる。自然なものというのは病菌なのだ。そのほかのものーーー健康とか無傷とか、なんなら正常と言ってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ。りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、その為には、それこそよっぽどの意志と緊張をもって、決して気をゆるめないようにしなければならんのだ。実際、リューずいぶん疲れることだよ・・・

・・・僕は、あらゆる場合に犠牲者のが側に立つことに決めたのだ。彼らの中にいれば、僕はともかく捜し求めることはできるわけだーーーどうすれば第三の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね。」

リューは、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーに何かはっきりした考えがあるか、と尋ねた。

「あるね。共感ということだ」・・・「結局」と、淡々たる調子で、タルーは言った。「僕が心をひかれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ」

「だって君は、神を信じてないんだろう」とリュー。

「だからさ、人は神によらずして聖者になりうるかーーーこれが、こんにち僕の知っている唯一の具体的な問題だ」*****

◆関連 2月2日の休息、518、628、636、637、649回・・・一日も早い終息を祈ります。  Ω   


世界のベストセラーを読む(648回) 今は受難週の中、’20年4月12日はイースター(復活日)です。

2020-04-07 11:55:57 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

何故に、キリスト教は言葉を要求し面倒臭いのだ。アラビア人を殺し、その理由が太陽だ、と言い、懺悔を促す司祭の要求にその胸ぐらをつかんで追い出し、俺は俺の人生だ、ああすっきりした と。それが、「異邦人」主人公 ムルソーの言葉だった。前にブログに掲げた松谷みよ子の芥川賞をもらっていた小説「過越の祭」を紹介したのも同様の内容だった。結婚した相手が作家でユダヤ人、アメリカに住んでも親戚一同集まり決まった宗教行事を厳かに行い、障害を持った子供もあったが故か、聖書を読み何やらその訳のわからないかったるい儀式に付き合ってられないと、彼女は夜の街に飛び出しすっきりする・・・。

◆いずれの主人公も、同調する為の先理解がないからなのであるが、まさにキリスト教という宗教も人とその歴史についての先理解が要求される。殆どの人は、キリスト教は清く、正しく、美しく?を要求しているように思い、憧れのような崇高な?イメージ、それにアカデミックな雰囲気にひかれるのだ。無論、それは間違いではないのだが、だが、間違えてはいけない、肝心なのはイエスという男は、血だらけになってボロボロになって、犯罪人の一人として呪われた十字架で死んだということなのだ。いかに僕らは周囲の他人の目を気にして生きていることだろう。今生を経て必然的に死ぬであろう肉体を持って自分の言葉として彼の言葉を聞き取らなければ、この地上に彼の血だらけの十字架が立った理由は分からない。キリストが、今宵、パラダイスに行くと言われた男は共に十字架に掛けられた、ただイエスを認めた犯罪人だった。キリストは空間に浮かんでただ、天国を指し示しているのではない、無神論(カトリックでなければ違っていただろうと僕は思うのだが)如何に関わらず我々は人間としてこの地上の不条理と戦っていかねばならないのだ・・・それが、カミュの不条理の哲学だった。

◆何故に、キリスト教は言葉を要求し面倒臭いのだ。・・・実際にこの身をもって復活するからである というのが 今の僕の答えである。この世界中にたった一人の自分という人間が、今も動いている壮大な永遠といわれる神のドラマに触れたとき誰でもがきっと驚くに違いない、僕はそう信じている。・・・


世界のベストセラーを読む(647回) 生か死か、それは頭でこねくり回していることではなく今の状況なのだ!

2020-04-07 10:43:24 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

今朝は、こちら東北は風が少し冷たいが太陽が輝き、空には雲ひとつ見られない青空である。

◆ブログ638回から642回に紹介した東京の退任牧師から、先方の教会での学びの資料が配信されてきたので、又、記録として掲載したい。ご夫婦ともに持病があるから今回のコロナ騒動で外出自粛にも十分留意しているという内容で。それから、最近、カミュの小説「ペスト」が読まれているそうですね、と書かれていたので、僕はだいぶ前から僕のブログでそれを紹介しているのですよ、と返答。机上の前には彼の若き頃の写真も貼っています。僕のカミュとの第一彼との出会いは「異邦人」という小説でしたから・・・と。

◆教会という組織体に属していない人にも多く、実際生きて働いているキリストを知りたいと願っている人は、実に多数存在していると僕は思っているので、その障害を取り除きたいと願っているのです。言われてみれば時は迫っている、というところだろうか・・・。織体に入って居る人々には先理解としての事柄が疑問もなくベースとなっているが、一方、外の人には、その上に言葉が重ねられ説明をされてもしっくり来ないのではないかと常に思っているところなのである。アカデミックな雰囲気には浸るとことはいくらでもできるだろう。そう、実在の彼(イエス)と語るには聖書を自分の言葉で読まなくてはいけない。それが答えでもあるのだが、しかし、それはあくまで無味乾燥のようで、長い歴史の先理解がないと分からない内容でもある。まさに、僕らは主人公ムルソーでもあるわけだから。

◆キリスト教という宗教は心の安寧だけではないということは、今の現実を直視したらいいではありませんか? 否、書き方がよくなかった。そもそも、人が分類した宗教の一つなのだというようなものではないのです。いくら語っても理解しない人にはわからないのだろうけれど。僕らには不可知だが生きて働いて世界を動かしているのだよ、それを感じると言うか、察するというか。全宇宙を創造し、人を創造し、ゆえに心に叶う人には先に啓示というものを与えているというから・・・。だから、現在のコロナ騒動の状況に多くの真のキリスト者はほとんど驚いてはいないのである。・・・