marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(764回) シンボライズされた自己の「G」のありか

2020-12-29 12:09:15 | 日記

 ◆シンボライズして石積みのその「G」も、「自分とは何か」とか、『「自分で考える」ということ』とか、『「わかる」とはどういうことか』、などという本を昔、読んできて今更、また巣ごもりの中、感心しているのは、つまるところ、自分は阿保だったなぁ、という自覚が発見が心底にあったからなのです。それに時折起こるなぜか分からぬ恐怖感。それを留める自分の核が無い。動かぬ自分の核がない。それは、言葉で納得することが優先していることがらではなく、詰まるところ、自分の一生一度きりの肉体をとおしての体験や心労?を通しての会得、それは最終、自己の言葉にまとめられるわけですが、それも固定されるものではなく、次のステップへの足掛かりの踏み台となるべく言葉を得るためだと言えますけれど、その核の再確認の維持だったと。ですから、今更ながら、当たり前のことを書かれていて昔の本の再読で、当たり前のことと思ってそのこと自体が、そもそも人と言うのは、分かっていなのだなぁとしきりに思わされているところです。◆そこで、命をあらしめている創造の神をとらまえて、キリスト教では逆に神にとらまえられてと言いますが、自分の存在の意味とその不安の解消の答えをなんとか得たいものだとしきりに思っていたのです。この自分の核、思考の原点は、できる限り歳をとって雑音で考えが書き乱される前の若いころに見つけておくことが大切かと思われます。僧侶が座禅を起こない、キリスト教信者が行う早朝の祈りにおける、仏や神からの自己の中の「霊的受容器」の整え、確認。その頭脳の中のスゥイートスポットと呼ばれる核は、僕の場合、前頭葉と松果体の間に存在するように感じています。いずれ、身体全体から言えば、決して固定化されは魂の「G」のありどころです。その核心を得ると、わずかな静かな時間でも霊の所在と会話し、普遍的な永遠に続く魂の流れに乗るように思われ心が落ち着くのです。


☕ コロナ禍はどうして起こったのだろう

2020-12-29 11:21:24 | 日記

◆外的環境によって「心が揺らぐ」ということを先に書いた。自然界では殆ど外的作用に由来する。強風や地震などは物理的作用だから。目で確認できること以外では、自然に人が手を加えることによる善し、悪しである。里山や海の良い牡蠣養殖のために海に流れでる川の山に木を植えるという石巻の畠山というあの長靴白ひげ爺さんなどは、実に人が自然の一部であり、自然を知って管理しなければいけないことを強烈に教えてくれているものである。◆海を守るために山に木を植える? 何故なのだろうと、思っていたが、山から流れる川の真水、それには山の木々の自然の芙蓉な葉酸が含まれているからなのだということ知った。人為的に山を開発し、木々を伐採し、人工肥料などで里山を作ろうとしても駄目なのだということ。それは、高度成長期の前のオリンピックあたりの事だったという。◆採れた牡蠣を開くと赤いのだ。まるで血を流しているように・・・。人も生き物から赤い汁がでると血のように思い、いささか驚く。(これは赤潮が原因だ)。この働きは海外にも知られた。そして、毎年、山に木が植えることが行われている。震災以降も、石巻ではおいしい牡蠣が採れている。◆僕の文字としての思考の基となる原点は、次にある。「神は自分の像(かたち)に人を創造した。神の像にこれを創造した。・・・神は言った。『見よ、わたしは全地の面にある、種をつけるすべての草と種をつける果実のなるすべての木とをあなた方に与えた。それはあなたがたの食物となろう。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這う生命あるすべてのものにも、すべての緑の草を食物として与えた。』するとそうなった。神が自ら造ったすべてのものを見ると、はたして、それはきわめてよかった。」(創世記1:27~31)◆人はあまりに神から遠く離れてしまった。・・・「あなたが大地に戻るまで、あなたは顔に汗して食物を得ることになろう。あなたは大地から取られたのである。あなたは塵だから、塵に戻る。」(創世記3:19)・・・続く

 


☕ 嘘のように雪が融けたので石を積む

2020-12-29 10:01:08 | 日記

 ◆県内で雪の多い地方のニュースが毎日のように流れ、雪下ろしで亡くなる人も出たという日曜日から今日にかけて、こちら海がわに面する地域は、嘘のように雪が解けて、青空が出て、すがすがしい太陽がまぶしかった。雪が降り続いて、庭の自分勝手な自分自身の存在の重心のイメージのシンボライズした石積みを行った。ハシビロコウという鳥の頭に似た石が面白い。◆その頭は20kgくらいはあるが、積むだけであれば難しくはなく、そっと一点でも載せて収まれば、それを繰り返し積む。実のところ、実に不安定ではあるが載せてしまうと重いので多少の事では崩れない。地震や風の強さの大まかな自然を感じる造形、とかなんとか勝手に思い込んでいる。◆といっても自分としては哲学的・・・、それは、自分の存在の土台となる魂の重心「G」というものを思考する為のシンボルライズしたものなのだ。その「G」が少なくともすべての石の重心の地面に対する垂直線が、下方にそろっているからバランスが保たれているのであって、それが力学的環境の変動によって、すぐにでも崩れてしまうのだ。◆僕らの日常の心のあり方も同じではないだろうか。従って、毎朝起床して、静かな時間、体調を点検するとともに、その自分の中の土台となる「G」を確認することから一日が始まるのである。それは、キリスト者であれば朝の祈りの土台確認であろうし、僧侶であれば早朝の座禅とも言えるだろう。いずれ、心も肉体も疲労していく一日にあって、心の再生となる土台確認、それは結局、肉体が消滅してもその芯となる魂の行き所のレールに乗ろうとすることに他ならないのだが。◆あのデカルトさんによるとそれは、脳の「松果体」というところにあると、昔、図入りで訳を読んだことがある。・・・続く


☕ 「自分で考える」ということ

2020-12-26 21:33:14 | 日記

  ◆12/14 雪と風が強くなり、今までとは違い時折のとても強い突風。庭に積んでいた石が、勝手にシンボライズにしていた石がすべて崩れた。春までそのままにしておくことにしよう。◆コロナ禍の巣ごもりで、いろいろ昔の本を読みだしたが、片付けそっちのけで、昔のぼんやりした思いが鮮明に思い出されて、歳そうおうに改めて昔のことを思い出し、まだまだ老いることはできないなと日増しに思わされている。言葉は、豊富な方がいい。しかも、使い方を覚えていて、自己の省察も早い時期から、前向きにできるようになるといい。幼少時代からの家庭での在り方ということになるのだろうけれど。僕が思うに、子供時代(中学、高校)には自分のことを考える、つまり自己省察できる言葉はできる限り、豊かな方がいいだろう。もっとも必要なのは、勉強うんぬんよりも、まず第一に大切と思うことは、それを学ぶ自分と言う生き物を省察できる言葉を持つことではないだろうか。僕などは、大学生になっても”自分とは何ぞや”などと考え、暗かったのだから・・・。◆掲題の『「自分で考える」ということ』と書いたのは。澤瀉久敬(おもだかひさゆき)という方の講演をまとめた角川文庫本(当時180円なり)の表題である。自分探しの中で学生時代読んだが、この度、本棚から見つけたが昭和54年6月30日30版発行となっててずいぶん古いが、そのあまりに当たり前のことを人は殆ど自覚していないので、今更ながら、外山の「思考の整理学」などより大いに宣伝して、多くの人に読んで欲しいものと思った次第。絶版になっているかな?・・・覚醒しますよ!!


世界のベストセラーを読む(763回) 『余はいかにして・・・』内村鑑三を読む。

2020-12-26 19:01:20 | 日記

◆内村鑑三の「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」は、多くの他国の言語に訳されて世界で読まれていた。内村が知らずに訳された言語も・・・アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、スゥエーデン、フィンランド、デンマーク、ロシア、オランダ・・・。文庫本で読めるだろうが、僕の持っているのは古くてハードカバー。昔、教会のかつての教会文庫の書籍を整理処分する際、いただいたもの。だいぶ古く、白鳳社というところから昭和49年5月20日第2刷発行、泰斗、鈴木範久 訳で出されたものである。それが、実家の書棚の本を整理しようとして再読しはじめ、改めていろいろ思わされ、解説、索引もあり、しばし、当時の思いに浸り、涙した次第。あのシュバイッアーや日本に来らてICUで教鞭をとられた、神学者のE・ブルンナーも読んでいたとのことである。◆この今回のキリスト教国アメリカでの混乱につき、読むと注釈や訳者の解説、内村の年譜が書かれていて参考になりいろいろ教えられたこと多かった。特にこの国の信仰心。2019年、コロナ禍と共にアメリカ合衆国の大統領選で、共和党から、今また民主党になったが、今までのアメリカらしさからがらりと変わった強権、混乱、方針転換の混乱のなか、実は、何ら当時とその根は変わってはいなかったのではないかと思わされた。当時、内村はこの日本をも、神の宣教の場として望まれておられるのだと、自国を誇りにさえ思うのであった。そして祖母のもたれていた信仰心を時折、思い起こす。◆イエスはこの世の完成として来たのであって、決して他宗教を排他するべく神から遣わされたのではないと言う。最も優れたキリスト者は仏教とか儒教の精髄を決して捨ててはいなのであるというのである。しかし、光と闇、生と死との区別の徹底において、キリスト教がもっともすぐれいるというのであった。当時のアメリカにおける宗教界の喧騒から、自分は決してキリスト教の職業的な牧師を心から嫌ったのでした。◆僕は、イエスの言葉をこの国へ宣教すべく人々は、この内村の本が必読の書であると深く思ったのです。・・・おわり