おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

人間みな繋がっている

2011年04月11日 06時43分09秒 | 日記
選挙があって、昨日は村の小さな公民館に投票に行った。

この土地はもともと別荘地として開発された外輪山のなだらかな斜面。
いまだに永住者は半分くらいで、後は週末か一年に何度か訪れる別荘、保養所が多い。
県道で区画される上と下。下の集落が昔から居いている地元住民。この間に、太平洋ほどの見えない溝がある。

一部の人を除き、殆ど付き合いのない村の地元民が選挙では○○をお願いしますと訪ねてくる。
日本人は選挙が好きな国民なのだろうか?

63歳の現職、32歳の新人、絵に描いたような図式だ。

結果は年功序列に終わった。

午後、卒業生が20数年ぶりに訪れるというので、今年初のバーベキューでもてなす事にした。

「縁」というものがある。人間はどこかで繋がっているということを改めて認識した。
独りの子がこの場所は来た事があるという・・・たしかに見覚えがある・・・

以前自分が英会話を習っていた先生の家に遊びに来た場所がこの土地に似ている。「その人の名前は○○さんというのだけれど・・・」

「えーっ」
「その○○さんってお隣だよ」

「えーっ」
「通りで見たことあるなあと思いました」

「じゃあちょっと挨拶しに行くか」と連れ出して、彼女を紹介。お隣の娘さんに家に来てもらって英会話を親子で習っていたという。私がここに家を建てる前に、一度食事に誘われてここでパーティーを開いたのだという。


阿蘇南郷谷のカルデラの中、田舎で人の数より赤牛の数の方が多いんじゃ・・・?と思うほど過疎の村。その半径100m範囲内に大事な教え子が二人も居た。学校まではマイカーで1時間かかる遠方の地。通学には不便な遠隔地だけどほんの目と鼻の先によく覚えている子と担任の生徒がいたのだ。
そして今回、来てすぐそんなことがあった。

人間ってずーっとずーっと血を辿っていけば一組の夫婦に辿り着く。キリスト教でいうアダムとイブだ。
さらに遡ると全ての動植物の出発点に辿りつく。
生命の起点である一つの生命、一つの細胞・・・

そう考えるとみな繋がっていることが了解される。