軽井沢というとすぐに思い浮かぶものの一つに、カラマツがある。町内全域にカラマツは多く植えられているが、特に三笠通りにあるカラマツ並木は美しく、人気の場所になっていて、観光案内のパンフレットにも記されている。
観光地図・軽井沢エリアガイドに紹介されている三笠通りのからまつ並木
三笠通りのカラマツ並木(2019.7.10 撮影)
先日、福岡から訪ねてきた友人の奥様が、「カラマツの林の下で『落葉松』の歌を歌いたい!」と言われたので、この三笠通りに案内したことがあった。彼女の所属している合唱団の発表会が近く開かれ、そこでこの『落葉松』を歌うということであった。
駐車場の関係で、旧三笠ホテルの近くに案内し、ここで思う存分歌っていただいたが、「念願が叶い、とても気持ちよく歌えました」と言っていただいた。
三笠通りの並木の中で『落葉松』を歌うN夫人(2019.5.12 撮影)
旧三笠ホテル(2019.5.12 撮影)
軽井沢には、母を何度か連れてくることがあった。すると、いつも決まったように「シラカバの林を過ぎて・・・」と詩の一節を口ずさむのであるが、そのつど妻に、「お母さん、それは『カラマツの林を過ぎてですよ・・・』」と正されていた。どうも、どこかでシラカバとカラマツとを取り違えて覚えてしまっていたようである。
この「カラマツの林を過ぎて・・・」はもちろん、北原白秋の詩である。母が、どこまで覚えていたのか知らないが、全文は次のとおりで思いのほか長い。
北原白秋「落葉松」全文
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
北原白秋がこの詩を作ったのは、1921年(大正10年)のことで、軽井沢滞在中、朝夕菊子夫人と落葉松林を散策し想を得て、同年11月の「明星」にこの『落葉松』の詩を「誌二十五章」の題で発表したとされる(「軽井沢文学散歩」⦅1995年 軽井沢町編・発行⦆に一部筆者追記)。
また、年譜(白秋全集別巻 1988年 岩波書店発行)にはこの時のことは次のように記されている。
「8月2日から軽井沢星野温泉で開かれていた『自由教育夏季講習会』に三日目から出講、児童自由詩について講話。他の講師に、山本鼎、山崎省三、鈴木三重吉、巖谷小波、島崎藤村、沖野岩三郎、弘田竜太郎らがおり、内村鑑三も飛び入りで講話。全国から百名以上の参加者があった。山本鼎の別荘に宿泊。」とある。
現在、中軽井沢の、星野温泉入口の右側、ハルニレテラスにつながる遊歩道の脇に北原白秋の文学碑がある。これは、軽井沢町が北原白秋の詩業をたたえ、これを永遠に伝えるべく白秋ゆかりのこの地に詩碑を建設したもので、1969年(昭和44年)6月、カラマツの新緑の美しい頃のことである。
星野温泉の入り口、遊歩道脇にある北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の詩全文(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の第八節(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑背面に刻まれている設立趣意文(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑脇に設けられている解説パネル(2019.7.10 撮影)
自然石でできているこの碑には、落葉松の詩の全文が活字体で、また詩の最後の第八節が白秋の自筆で銅板に刻され、はめこまれている。
こうしたことを見ると北原白秋と軽井沢とは随分関係が深いように思えるが、実際には北原白秋と軽井沢とのつながりは、それほどではないようで、この詩作のほかに白秋全集の年譜を探しても、関連した出来事は僅かで、唯一1923年(大正12年)に次の記述があるのみであった。
「4月14日、妻子を連れ信州へ出発。翌5日、信州大屋の農民美術研究所の開所式に出席、その晩から小杉未醒、平福百穂、倉田白羊らと別所温泉柏屋別荘に二泊。(軽井沢の)追分油屋に五泊後、22日から沓掛の星野温泉に滞在。熊の平から坂本まで碓氷峠の旧道を一人で徒歩で下り、妻子と合流。帰途前橋の萩原朔太郎を訪問、一泊する。萩原家では、日の丸を掲げて歓迎。」とある。
ウィキペディアの年譜(ウィキペディア 2019年5月6日)を見ると、これより前、白秋が28歳の時に、「1913年(大正2年)、長野県佐久のホテルに逗留し、執筆活動を行った。」と記されている。このホテルとは「佐久ホテル」のことで、信州でも最古の温泉宿で、創業1428年、開湯600年に迫る歴史の湯とされている温泉「旭湯」で知られているところである。
このことは、佐久商工会議所発行記念誌の「暖簾~時を繋いで佐久に生きる~」欄・「佐久ホテル」の項に記されていて、次のようである。
「・・・佐久ホテルの年表には蒼々たる武将、文化人、皇室関係、政治化などの名前が連なる。古くは武田信玄の名があり、『信玄直筆自画図』が保管されている。文化人では、小林一茶、葛飾北斎、老南堂、島崎藤村、柳田国男、北原白秋、若山牧水、萩原井泉水、種田山頭火、佐藤春夫などが宿泊。皇室は高円宮妃殿下などが来館されている。また昭和60年に解体されたが明治天皇の専用室もあった。・・・」
軽井沢とはすぐ近くの佐久であるが、この頃はまだ軽井沢に多くの文士が集まるという状況ではなかったようである。
室生犀星が軽井沢に別荘を建てたのが1931年、堀辰雄が初の住まいを得たのが1938年、正宗白鳥が別荘を建設したのが1940年である。室生犀星の別荘には、志賀直哉、川端康成、津村信夫、立原道造などが出入りしていたとの記録はあるが、北原白秋の名前を見つけることはできない。
いつもの明治・大正期の文士の表中での北原白秋の位置を見ておくと次のようである。
明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の北原白秋(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥、津村信夫と有島武郎(黄で示す)
軽井沢との関係を探っていくと、専ら室生犀星との個人的なつながりが見えてくる。
室生犀星は、著書「我が愛する詩人の傳記」(1958年 中央公論社発行)で第一番に北原白秋を紹介している。書き出しは次のように始まっている。
「明治42年3月、北原白秋の処女詩集『邪宗門』が自費出版された。早速私は注文したが、金沢市では一冊きりしかこの『邪宗門』は、本屋の飾り棚に届いていなかった。当時、北原白秋は25歳であり私は21歳であった。金沢から二里離れた金岩町の裁判所出張所に私は勤め、月給八円を貰っていた。月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読するのに、少しも高価だと思わないばかりか、毎日曜日ごとに金沢の本屋に行っては、発行はまだかと言うふうに急がし、それが刊行されるといばってまちじゅうを抱えて歩いたものである。誰一人としてそんな詩集なぞに目もくれる人はいない、彼奴は菓子折りを抱えて何の気で町をうろついているのだろうと、思われたくらいである。
処女詩集『邪宗門』を開いて読んでも、ちんぷんかんぷん何を表象しているのか解らなかった。・・・泥臭い田舎の青書生の学問では解るはずがなく、私は菓子折りのような石井柏亭装丁の美しい詩集をなでさすって、解らないまま解る顔をして読んでいた。
それから47年もたった今日、『邪宗門』をふたたび精読してみて、邪宗門秘曲一連の詩はやはり昔とおなじで、解らないものがあった。・・・」
室生犀星は続いて、北原白秋への思いを次のように記している。
「明治44年の6月に第二詩集『思ひ出』が、自費出版ではなく美しい装丁本となって、その時代の華やかな詩歌集出版元である東雲堂という書店から出版された。『思ひ出』一巻にあふれた抒情詩はすべて女の子に、呼吸をひそめて物言うような世にもあえかな詩情からなり立っていて、島崎藤村、薄田泣菫、横瀬夜雨、伊良子清白、河井酔茗、与謝野晶子らの詩境から、ずっと抜け出した秀才の詩集であった。・・・」
「・・・明治44年頃の私の毎日の日課は一日に一度ずつの、本屋訪問が抜き差しならぬ文学展望の形になっていた。私はそこで四六判の横を長くしたような東雲堂発行の『朱欒』(ザムボア*)という、白秋編輯の詩の雑誌を見つけた。そして私は白秋宛に書きためてあった詩の中から、小景異情という短章からなる詩の原稿を送った。例の《ふるさとは遠きにありてうたふもの》という詩も、その原稿の中の一章であった。もちろん、返事はないが翌月の『朱欒』に一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動を感じて白秋に感謝の手紙を送った。・・・」(*筆者注:ザムボアとは柑橘類のザボンのこと)
この後、室生犀星は『朱欒』への詩の投稿を通じ、萩原朔太郎を知ることとなる。そして、友情は朔太郎が犀星よりも先に死去するまで続く。北原白秋とこの二人の関係については、後年の次のような犀星と娘とのやり取りを紹介している。
「この間家の娘がいったいお父チャンには、小説を書くのに先生がいたのかどうかと、これだけは聞いて置かなければならないというシンケンな顔付で訊ねた。私曰く、お父チャンは小説の原稿をえらい小説の大家に見て貰ったことは一度もない、お父チャンは小説というものは何時も一人で考えて書いたのだと私は説明した。では詩の先生はいやはりますかと言ったから、詩はやはり北原白秋が先生みたいなものだ。白秋が生きている時分は大きな声でいうと、白秋におべんちゃらを言うているようであかんと思うたが、今になると萩原朔太郎と私とはなんといっても白秋の弟子だ、原稿の字は一字もなおして貰わなかったが、白秋のたくさんの詩のちすじがからだに入って、それが萩原と私にあとをひいている、これほど明確な師弟関係はない、白秋も生前にはこの二人を弟子なんぞと言うには、息子が大きくなりすぎているのであれはあれの好き勝手にさせておけばいいんだよと、弟子とはよんでくれなかった。しかし、おれのほねを拾うやつはこの二人の男だ、あれらはちすじをひくことでは間違いのない人だと、白秋は夫人にもそれは言わないで頭に持ったままで、死んでしまわれた。そして一人の兄弟萩原朔太郎も残念にも私より先きに死んで行った。私はこの伝記だかなんだかわからないものを書くために、白秋アルバムと白秋全集を併読しながら写真にある白秋の顔を毎日眺めていた。気難しくやさしく、小僧、大きくなって宜かったよかった、今度はがらになく伝記と来たね、丹念にうまく書けよと、開く頁の先々で顔を見せられた。・・・」
このように、北原白秋は室生犀星にとり、師であり兄貴であったようだ。しかし、軽井沢という地での交流となると何も見えてこない。
この「我が愛する詩人の傳記」の中で、犀星は白秋の日常を様々に紹介しているが、それらは白秋の次の略年譜に譲ることとして、本稿を終わろうと思う。
尚、冒頭で紹介したN夫人の歌った「落葉松」は、作詩:野上彰、作曲:小林秀雄によるもので、北原白秋の詩ではもちろんなく、次のようなものである。
落葉松の秋の雨に
わたしの手が濡れる
落葉松の夜の雨に
わたしの心が濡れる
落葉松の陽のある雨に
わたしの思い出が濡れる
落葉松の小鳥の雨に
わたしの乾いた眼がぬれる
では、年譜(年齢は当時の数え方による)。
・1885年(明治18年)1歳
1月25日(戸籍上は2月25日)、福岡県山門郡沖端村(現、柳川市沖端町)に、父・長太郎(当時29歳)、母・しけ(通称しげ、当時25歳)の長男(戸籍上は次男)として生まれた。本名隆吉。
実際には母の実家で生まれ、1か月後に母と柳川に帰り、出生を届け出。長太郎・しけの最初の子である隆吉は、戸籍上は次男だが、先妻の子豊太郎が夭折したため、事実上は長男として育てられた。
母しけは、長太郎の三度目の妻に当たる。
・1887年(明治20年)2歳
夏、チフスに感染、一命はとりとめたが、乳母シカがチフスに感染して死去。二人目の乳母が来る。
9月5日、弟・鉄雄誕生。
・1890年(明治23年)5歳
7月20日、妹ちか誕生。
・1891年(明治24年)6歳
4月、矢留尋常小学校に入学。
この年から、異母姉かよと、南町の青木フヂの私塾に通い、習字を習い始める。
・1893年(明治26年)8歳
5月17日、妹いゑ誕生。
・1895年(明治28年)10歳
3月、矢留尋常小学校を卒業。
4月、柳河高等小学校(当時四年制)に入学。
・1896年(明治29年)11歳
1月31日、弟義雄誕生。
・1897年(明治30年)12歳
柳河高等小学校二年修了で中学校の試験に合格、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)に入学。
・1899年(明治32年)14歳
3月、三年進級に際し、二番の成績にもかかわらず、数学一科目が及第点に満たず落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒したとされている。
・1901年(明治34年)16歳
沖端の大火の際に、川向うからの飛火によって北原家の酒蔵が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、友人たちと「白」の下に一字を置く雅号を定め、籤で「秋」の字を引き当てて「白秋」の号を用い始める。
・1904年(明治37年)19歳
親友の中島鎮夫が「露探」(筆者注:ロシアの軍事スパイ)の嫌疑を受け、白秋宛ての遺書を残して自刃。衝撃を受けた白秋は長編詩『林下の黙想』の執筆に打ち込む。この詩が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好みによって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。
・1907年(明治40年)22歳
鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。
・1909年(明治42年)24歳
3月15日、処女詩集『邪宗門』を易風社より刊行。装幀石井柏亭。12月下旬、生家破産のため急遽帰郷。
・1910年(明治43年)25歳
2月20日付の、『屋上庭園』第二号に発表した白秋の詩『おかる勘平』が風俗壊乱にあたるとされ、発禁処分を受け、同誌は二冊で年内に廃刊となった。またこの年、松下俊子(名張市の医師の娘、後述)の隣家に転居。(東京原宿)。
・1911年(明治44年)26歳
第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され、一躍文名は高くなる。また文芸誌『朱欒』(ザムボア)を創行。
・1912年(明治45年 / 大正元年)27歳
母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。
白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられたが、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。
・1913年(大正2年)28歳
初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。『朱欒』廃刊。発行期間は短かったが、萩原朔太郎や室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった。その年、長野県佐久のホテルに逗留。
・1914年(大正3年)29歳
肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また『地上巡礼』創刊。
・1915年(大正4年)30歳
前橋に萩原朔太郎を訪う。弟・鉄雄と阿蘭陀書房を創立し、雑誌『ARS』を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』刊行。
・1916年(大正5年)31歳
詩人の江口章子と結婚し、東京・小岩町の紫烟草舎に転居。『白秋小品』を刊行する。
・1917年(大正6年)32歳
阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。
・1920年(大正9年)35歳
『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。白秋が妻の不貞を疑い章子と離婚。
・1921年(大正10年)36歳
佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。軽井沢滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。
・1922年(大正11年)37歳
長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。
・1923年(大正12年)38歳
三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。
・1925年(大正14年)40歳
長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。
・1930年(昭和5年)45歳
南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。
・1933年(昭和8年)48歳
皇太子明仁親王誕生の際に、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。
・1934年(昭和9年)49歳
『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。
・1935年(昭和10年)50歳
新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。
・1937年(昭和12年)52歳
糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。
・1938年(昭和13年)53歳
ヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。
・1941年(昭和16年)56歳
春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。
・1942年(昭和17年)57歳
小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日、糖尿病と腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で逝去。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。
観光地図・軽井沢エリアガイドに紹介されている三笠通りのからまつ並木
三笠通りのカラマツ並木(2019.7.10 撮影)
先日、福岡から訪ねてきた友人の奥様が、「カラマツの林の下で『落葉松』の歌を歌いたい!」と言われたので、この三笠通りに案内したことがあった。彼女の所属している合唱団の発表会が近く開かれ、そこでこの『落葉松』を歌うということであった。
駐車場の関係で、旧三笠ホテルの近くに案内し、ここで思う存分歌っていただいたが、「念願が叶い、とても気持ちよく歌えました」と言っていただいた。
三笠通りの並木の中で『落葉松』を歌うN夫人(2019.5.12 撮影)
旧三笠ホテル(2019.5.12 撮影)
軽井沢には、母を何度か連れてくることがあった。すると、いつも決まったように「シラカバの林を過ぎて・・・」と詩の一節を口ずさむのであるが、そのつど妻に、「お母さん、それは『カラマツの林を過ぎてですよ・・・』」と正されていた。どうも、どこかでシラカバとカラマツとを取り違えて覚えてしまっていたようである。
この「カラマツの林を過ぎて・・・」はもちろん、北原白秋の詩である。母が、どこまで覚えていたのか知らないが、全文は次のとおりで思いのほか長い。
北原白秋「落葉松」全文
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
北原白秋がこの詩を作ったのは、1921年(大正10年)のことで、軽井沢滞在中、朝夕菊子夫人と落葉松林を散策し想を得て、同年11月の「明星」にこの『落葉松』の詩を「誌二十五章」の題で発表したとされる(「軽井沢文学散歩」⦅1995年 軽井沢町編・発行⦆に一部筆者追記)。
また、年譜(白秋全集別巻 1988年 岩波書店発行)にはこの時のことは次のように記されている。
「8月2日から軽井沢星野温泉で開かれていた『自由教育夏季講習会』に三日目から出講、児童自由詩について講話。他の講師に、山本鼎、山崎省三、鈴木三重吉、巖谷小波、島崎藤村、沖野岩三郎、弘田竜太郎らがおり、内村鑑三も飛び入りで講話。全国から百名以上の参加者があった。山本鼎の別荘に宿泊。」とある。
現在、中軽井沢の、星野温泉入口の右側、ハルニレテラスにつながる遊歩道の脇に北原白秋の文学碑がある。これは、軽井沢町が北原白秋の詩業をたたえ、これを永遠に伝えるべく白秋ゆかりのこの地に詩碑を建設したもので、1969年(昭和44年)6月、カラマツの新緑の美しい頃のことである。
星野温泉の入り口、遊歩道脇にある北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の詩全文(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の第八節(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑背面に刻まれている設立趣意文(2019.7.10 撮影)
北原白秋文学碑脇に設けられている解説パネル(2019.7.10 撮影)
自然石でできているこの碑には、落葉松の詩の全文が活字体で、また詩の最後の第八節が白秋の自筆で銅板に刻され、はめこまれている。
こうしたことを見ると北原白秋と軽井沢とは随分関係が深いように思えるが、実際には北原白秋と軽井沢とのつながりは、それほどではないようで、この詩作のほかに白秋全集の年譜を探しても、関連した出来事は僅かで、唯一1923年(大正12年)に次の記述があるのみであった。
「4月14日、妻子を連れ信州へ出発。翌5日、信州大屋の農民美術研究所の開所式に出席、その晩から小杉未醒、平福百穂、倉田白羊らと別所温泉柏屋別荘に二泊。(軽井沢の)追分油屋に五泊後、22日から沓掛の星野温泉に滞在。熊の平から坂本まで碓氷峠の旧道を一人で徒歩で下り、妻子と合流。帰途前橋の萩原朔太郎を訪問、一泊する。萩原家では、日の丸を掲げて歓迎。」とある。
ウィキペディアの年譜(ウィキペディア 2019年5月6日)を見ると、これより前、白秋が28歳の時に、「1913年(大正2年)、長野県佐久のホテルに逗留し、執筆活動を行った。」と記されている。このホテルとは「佐久ホテル」のことで、信州でも最古の温泉宿で、創業1428年、開湯600年に迫る歴史の湯とされている温泉「旭湯」で知られているところである。
このことは、佐久商工会議所発行記念誌の「暖簾~時を繋いで佐久に生きる~」欄・「佐久ホテル」の項に記されていて、次のようである。
「・・・佐久ホテルの年表には蒼々たる武将、文化人、皇室関係、政治化などの名前が連なる。古くは武田信玄の名があり、『信玄直筆自画図』が保管されている。文化人では、小林一茶、葛飾北斎、老南堂、島崎藤村、柳田国男、北原白秋、若山牧水、萩原井泉水、種田山頭火、佐藤春夫などが宿泊。皇室は高円宮妃殿下などが来館されている。また昭和60年に解体されたが明治天皇の専用室もあった。・・・」
軽井沢とはすぐ近くの佐久であるが、この頃はまだ軽井沢に多くの文士が集まるという状況ではなかったようである。
室生犀星が軽井沢に別荘を建てたのが1931年、堀辰雄が初の住まいを得たのが1938年、正宗白鳥が別荘を建設したのが1940年である。室生犀星の別荘には、志賀直哉、川端康成、津村信夫、立原道造などが出入りしていたとの記録はあるが、北原白秋の名前を見つけることはできない。
いつもの明治・大正期の文士の表中での北原白秋の位置を見ておくと次のようである。
明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の北原白秋(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥、津村信夫と有島武郎(黄で示す)
軽井沢との関係を探っていくと、専ら室生犀星との個人的なつながりが見えてくる。
室生犀星は、著書「我が愛する詩人の傳記」(1958年 中央公論社発行)で第一番に北原白秋を紹介している。書き出しは次のように始まっている。
「明治42年3月、北原白秋の処女詩集『邪宗門』が自費出版された。早速私は注文したが、金沢市では一冊きりしかこの『邪宗門』は、本屋の飾り棚に届いていなかった。当時、北原白秋は25歳であり私は21歳であった。金沢から二里離れた金岩町の裁判所出張所に私は勤め、月給八円を貰っていた。月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読するのに、少しも高価だと思わないばかりか、毎日曜日ごとに金沢の本屋に行っては、発行はまだかと言うふうに急がし、それが刊行されるといばってまちじゅうを抱えて歩いたものである。誰一人としてそんな詩集なぞに目もくれる人はいない、彼奴は菓子折りを抱えて何の気で町をうろついているのだろうと、思われたくらいである。
処女詩集『邪宗門』を開いて読んでも、ちんぷんかんぷん何を表象しているのか解らなかった。・・・泥臭い田舎の青書生の学問では解るはずがなく、私は菓子折りのような石井柏亭装丁の美しい詩集をなでさすって、解らないまま解る顔をして読んでいた。
それから47年もたった今日、『邪宗門』をふたたび精読してみて、邪宗門秘曲一連の詩はやはり昔とおなじで、解らないものがあった。・・・」
室生犀星は続いて、北原白秋への思いを次のように記している。
「明治44年の6月に第二詩集『思ひ出』が、自費出版ではなく美しい装丁本となって、その時代の華やかな詩歌集出版元である東雲堂という書店から出版された。『思ひ出』一巻にあふれた抒情詩はすべて女の子に、呼吸をひそめて物言うような世にもあえかな詩情からなり立っていて、島崎藤村、薄田泣菫、横瀬夜雨、伊良子清白、河井酔茗、与謝野晶子らの詩境から、ずっと抜け出した秀才の詩集であった。・・・」
「・・・明治44年頃の私の毎日の日課は一日に一度ずつの、本屋訪問が抜き差しならぬ文学展望の形になっていた。私はそこで四六判の横を長くしたような東雲堂発行の『朱欒』(ザムボア*)という、白秋編輯の詩の雑誌を見つけた。そして私は白秋宛に書きためてあった詩の中から、小景異情という短章からなる詩の原稿を送った。例の《ふるさとは遠きにありてうたふもの》という詩も、その原稿の中の一章であった。もちろん、返事はないが翌月の『朱欒』に一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動を感じて白秋に感謝の手紙を送った。・・・」(*筆者注:ザムボアとは柑橘類のザボンのこと)
この後、室生犀星は『朱欒』への詩の投稿を通じ、萩原朔太郎を知ることとなる。そして、友情は朔太郎が犀星よりも先に死去するまで続く。北原白秋とこの二人の関係については、後年の次のような犀星と娘とのやり取りを紹介している。
「この間家の娘がいったいお父チャンには、小説を書くのに先生がいたのかどうかと、これだけは聞いて置かなければならないというシンケンな顔付で訊ねた。私曰く、お父チャンは小説の原稿をえらい小説の大家に見て貰ったことは一度もない、お父チャンは小説というものは何時も一人で考えて書いたのだと私は説明した。では詩の先生はいやはりますかと言ったから、詩はやはり北原白秋が先生みたいなものだ。白秋が生きている時分は大きな声でいうと、白秋におべんちゃらを言うているようであかんと思うたが、今になると萩原朔太郎と私とはなんといっても白秋の弟子だ、原稿の字は一字もなおして貰わなかったが、白秋のたくさんの詩のちすじがからだに入って、それが萩原と私にあとをひいている、これほど明確な師弟関係はない、白秋も生前にはこの二人を弟子なんぞと言うには、息子が大きくなりすぎているのであれはあれの好き勝手にさせておけばいいんだよと、弟子とはよんでくれなかった。しかし、おれのほねを拾うやつはこの二人の男だ、あれらはちすじをひくことでは間違いのない人だと、白秋は夫人にもそれは言わないで頭に持ったままで、死んでしまわれた。そして一人の兄弟萩原朔太郎も残念にも私より先きに死んで行った。私はこの伝記だかなんだかわからないものを書くために、白秋アルバムと白秋全集を併読しながら写真にある白秋の顔を毎日眺めていた。気難しくやさしく、小僧、大きくなって宜かったよかった、今度はがらになく伝記と来たね、丹念にうまく書けよと、開く頁の先々で顔を見せられた。・・・」
このように、北原白秋は室生犀星にとり、師であり兄貴であったようだ。しかし、軽井沢という地での交流となると何も見えてこない。
この「我が愛する詩人の傳記」の中で、犀星は白秋の日常を様々に紹介しているが、それらは白秋の次の略年譜に譲ることとして、本稿を終わろうと思う。
尚、冒頭で紹介したN夫人の歌った「落葉松」は、作詩:野上彰、作曲:小林秀雄によるもので、北原白秋の詩ではもちろんなく、次のようなものである。
落葉松の秋の雨に
わたしの手が濡れる
落葉松の夜の雨に
わたしの心が濡れる
落葉松の陽のある雨に
わたしの思い出が濡れる
落葉松の小鳥の雨に
わたしの乾いた眼がぬれる
では、年譜(年齢は当時の数え方による)。
・1885年(明治18年)1歳
1月25日(戸籍上は2月25日)、福岡県山門郡沖端村(現、柳川市沖端町)に、父・長太郎(当時29歳)、母・しけ(通称しげ、当時25歳)の長男(戸籍上は次男)として生まれた。本名隆吉。
実際には母の実家で生まれ、1か月後に母と柳川に帰り、出生を届け出。長太郎・しけの最初の子である隆吉は、戸籍上は次男だが、先妻の子豊太郎が夭折したため、事実上は長男として育てられた。
母しけは、長太郎の三度目の妻に当たる。
・1887年(明治20年)2歳
夏、チフスに感染、一命はとりとめたが、乳母シカがチフスに感染して死去。二人目の乳母が来る。
9月5日、弟・鉄雄誕生。
・1890年(明治23年)5歳
7月20日、妹ちか誕生。
・1891年(明治24年)6歳
4月、矢留尋常小学校に入学。
この年から、異母姉かよと、南町の青木フヂの私塾に通い、習字を習い始める。
・1893年(明治26年)8歳
5月17日、妹いゑ誕生。
・1895年(明治28年)10歳
3月、矢留尋常小学校を卒業。
4月、柳河高等小学校(当時四年制)に入学。
・1896年(明治29年)11歳
1月31日、弟義雄誕生。
・1897年(明治30年)12歳
柳河高等小学校二年修了で中学校の試験に合格、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)に入学。
・1899年(明治32年)14歳
3月、三年進級に際し、二番の成績にもかかわらず、数学一科目が及第点に満たず落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒したとされている。
・1901年(明治34年)16歳
沖端の大火の際に、川向うからの飛火によって北原家の酒蔵が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、友人たちと「白」の下に一字を置く雅号を定め、籤で「秋」の字を引き当てて「白秋」の号を用い始める。
・1904年(明治37年)19歳
親友の中島鎮夫が「露探」(筆者注:ロシアの軍事スパイ)の嫌疑を受け、白秋宛ての遺書を残して自刃。衝撃を受けた白秋は長編詩『林下の黙想』の執筆に打ち込む。この詩が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好みによって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。
・1907年(明治40年)22歳
鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。
・1909年(明治42年)24歳
3月15日、処女詩集『邪宗門』を易風社より刊行。装幀石井柏亭。12月下旬、生家破産のため急遽帰郷。
・1910年(明治43年)25歳
2月20日付の、『屋上庭園』第二号に発表した白秋の詩『おかる勘平』が風俗壊乱にあたるとされ、発禁処分を受け、同誌は二冊で年内に廃刊となった。またこの年、松下俊子(名張市の医師の娘、後述)の隣家に転居。(東京原宿)。
・1911年(明治44年)26歳
第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され、一躍文名は高くなる。また文芸誌『朱欒』(ザムボア)を創行。
・1912年(明治45年 / 大正元年)27歳
母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。
白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられたが、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。
・1913年(大正2年)28歳
初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。『朱欒』廃刊。発行期間は短かったが、萩原朔太郎や室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった。その年、長野県佐久のホテルに逗留。
・1914年(大正3年)29歳
肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また『地上巡礼』創刊。
・1915年(大正4年)30歳
前橋に萩原朔太郎を訪う。弟・鉄雄と阿蘭陀書房を創立し、雑誌『ARS』を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』刊行。
・1916年(大正5年)31歳
詩人の江口章子と結婚し、東京・小岩町の紫烟草舎に転居。『白秋小品』を刊行する。
・1917年(大正6年)32歳
阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。
・1920年(大正9年)35歳
『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。白秋が妻の不貞を疑い章子と離婚。
・1921年(大正10年)36歳
佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。軽井沢滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。
・1922年(大正11年)37歳
長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。
・1923年(大正12年)38歳
三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。
・1925年(大正14年)40歳
長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。
・1930年(昭和5年)45歳
南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。
・1933年(昭和8年)48歳
皇太子明仁親王誕生の際に、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。
・1934年(昭和9年)49歳
『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。
・1935年(昭和10年)50歳
新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。
・1937年(昭和12年)52歳
糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。
・1938年(昭和13年)53歳
ヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。
・1941年(昭和16年)56歳
春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。
・1942年(昭和17年)57歳
小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日、糖尿病と腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で逝去。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。
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