演劇書き込み寺

「貧乏な地方劇団のための演劇講座」とか「高橋くんの照明覚書」など、過去に書いたものと雑記を載せてます。

レビューということ

2009年02月27日 15時02分31秒 | 笑い

誰のために書くのか、という話でこういうのをみつけた。
後輩のブログだが、具体的な内容はない。
http://nabegen4ro.exblog.jp/
トークのページにも具体的な内容は今のところないようだ。
http://kyunasaka.jp/topics/mac/mac26.html

自分自身だったら、なぜ「笑いを求めたはずのところで笑いが起きなかったのか」とか「自分だったらその問題をどう取り上げるのか」という視点でしか書かない。
だから、自分の中で答えがないことは、基本的には書かないし、面白かったことは、「なぜ面白かったのか、それは自分で再現できるのか、あるいはなぜ自分ではできないのか」という視点で書くことになると思う。


4月25日観劇予定

2009年02月21日 00時11分13秒 | 演劇情報

4月25日に新宿芸能社の「新橋フロリダ」を観にいこうかと思っています。
先行予約がもうすぐなんで、いとこの娘を誘いましたが忙しそうです。
ひまだったら、☆終演後、サポーターズ限定イベントってやつに、参加しょうと思っていたんですけど。

サポーターズ限定イベントに出なければ、椿組の「ささくれリア王」も観られるかも。


作・演出は阿藤智恵さん
大阪出身。加藤健一事務所俳優教室を経て間宮啓行氏、高見亮子氏、鐘下辰男氏らの演出助手をつとめ、劇作家に。現在はフリーで劇作・戯曲翻訳・演出を行っている。

>鐘下辰男氏
うーん、これがネックか。この名前を見るだけで、評価が下がる。


未来を描くということ

2009年02月19日 23時27分22秒 | 脚本
今年になって観た2本のミュージカルに共通しているのは、過去と現在が描かれていることです。
『ハヤブチノヌシ、帰るとき』では主に現在が、その現在にかかわる存在として過去が描かれています。
「ジュウシチネンゼミ」では、現在から始まって主に過去が描かれているのです。

実は、この2本に共通しているのは、過去が現在を予言しているということです。
「ジュウシチネンゼミ」では、どうやらそれがせみの起こす奇跡のようですし、『ハヤブチノヌシ、帰るとき』では夢見の巫女が現在の夢を見るのです。

ただ、惜しいなと思うのは、どちらも未来はあまり明確に、見せてくれていないということです。
『ハヤブチノヌシ、帰るとき』などは、夢見の巫女が主人公なのですから、未来が見えてもいいと思うのですが。

僕たちが子供のころに21世紀はすごい科学の時代になるのだと思っていました。
たしかに、一部の科学は鉄腕アトムの漫画で想像したよりも、進んでいるかもしれません。ただ、アトムの漫画の中でひげ親父が「どんなに科学が進んだって、くさやの干物を食べて、浴衣を着るんだ」というシーンがありました。手塚さんには本当の未来が見えていたのかもしれません。

未来を望んだところで、望んだようにはならないかもしれませんが
きちんと、自分たちが生きたい未来を描かないと、とんでもない方向へといってしまいそうですから。



stage21のジュウシチネンゼミー2

2009年02月18日 22時03分21秒 | 観劇の感想

ちょっとしつこいですが、「ジュウシチネンゼミ」です。

3.人物が書き分けられていない
顕著なのは、4人組の女子中学生とか、5人組の子供たちです。
女子中学生はそれぞれの台詞が多い割には、区分ができません。なぜかというと、感情を表現する台詞が少ないからです。
特に衣装が体操着で、髪型と体型しか区分するところがないので区分しにくいのです。
子供たちも同じです。まだ、私服なんで違うことは分かります。
でも、役割が見えてきません。芝居の同じ時間の中に生きているという感じがあまりしないのです。
・解決策
癖とか弱みを作ってあげると、個性が出てくると思います。
必ずお菓子を持っているとか、本の引用をするとかです。

都会の子だったら、こんな台詞しかいわない子も面白いかも。
「ママがいけないって言ったもの」
「ママに会いたい」
「ママは、私のことが一番好きだって」
「お巡りさん、先生はきれいかもしれないけど、私のママほどじゃないわよ」

4.感情が説明的だ、あるいはよく理解できない

たとえば、付き合っていたはずの堂本先生と珠代先生が別れるってことは、結構重要なはずなのですが、後半になるまでそれについて二人が話すことはありません。
別れて離れてしまうという説明が延々と続く印象を受けます。
さらに、いざその話をすることになっても、珠代の口から出てくるのは「行くのをやめるわけにはいかないの」という台詞です。
わくわくしませんよね。
堪えているのに、堪えきれない女性の気持ちを伝える台詞としては。
まあ、ミュージカルなんでかなり説明が多くなるのは仕方がないのかもしれませんが、演劇というのは感情を味わう部分が大きいので、そこら辺をスマートに見せてもらうと、かっこよくなります。

・解決策
上の例だったら、こんな台詞かな。メロドラマぽくしか思い浮かばないですが。
珠代「私は待っていなくちゃならないの?海だけはきれいなこの島で。それとも、待つのもだめなの」
あまりいい例ではありませんでした。

5.笑いがスマートでない

無理やり笑いを作っているので、笑いがスマートでないのです。せっかくスマートな劇場でやるのですから、スマートな笑いを見せてほしいものです。


では、脚本はこれくらいにして演出はどうでしょう

1.アイディアにこだわらないほうがいい
たとえば、盆を回すというのは普通の劇場ではできません。でも、頻繁に使ってしまうと見せ場での効果が半減します。

2.細かい演技を使わない
台詞が終わったあとも、会話の振りだけが続いて暗転していくシーンが何回か続きましたが、こういうシーンが続くと区切りがはっきりしなくなります。つまり、こういうシーンは盆が回るから作りたくなるシーンなのです。
ところが、何度も続くと見飽きます。

3.照明もきめ技は少なく
最初、照明が雑なのかなと思いましたが、山口さんなので、演出家さんのご要望にお答えしているのではないかと想定されます。きれいと思える照明も、何度も繰り返すと飽きてしまいます。

さて、全体の印象等です。

台詞はリバウンディングマイクのせいか、あるいはバトンから下がっている2本のマイク(最初星球かと思いました)のせいで、かなり明瞭に聞こえましたが、始まりの部分などは滑舌のせいか、あまり意味が伝わってきませんでした。

踊りは、どうなんだろう?
あまり、難しい振り付けはないようでした。

で、何が一番よかったかというと
アキコをやった九里つばさくんがよかったです。

一人だけメークがナチュラルでないという、謎は残りましたが、面構えはいちばん素敵でした。
ひざがすぐ曲がるという、問題点を克服すれば、いい役者さんになりそうです。


STAGE21の「ジュウシチネンゼミ」

2009年02月17日 22時43分52秒 | 観劇の感想

先日観てきたのはSTAGE21の「ジュウシチネンゼミ」というミュージカルでした。
とても、がんばっていましたが、演出と脚本がいまいちでした。先日観てきたかめおかゆみこさんの作品にも同じような問題がありました。
ではなぜ、いまいちなのか、どうすればよかったのか、書いてみようと思います。こういう問題をまともに書く人はまれでしょうし、舞台を観ていない人にとっては、何の意味かも分からないかもしれません。こういう時に、映画や小説と違って演劇はとても不便ですが、それを上回る何かがあると信じています。

と、それはさておき脚本と演出のだめ出しを。

1.時間設定にリアリティがない
舞台の設定は1991年+17年です。ここで、17年というのは非常に大事です。題名にもあるように、17年ごとにセミが成虫になる、そのときに奇跡が起きるというのがこのお芝居の大筋です。

では、冒頭から検証しましょう。
同窓会のために、3人の女性が集まっているところから、このミュージカルは始まります。パンフレットに主人公は15歳と説明されていますから、その少女の17年後ということになりますが、まったくそんな感じがしません。32歳の女性ですよね。
もう子供が小学生になっていてもおかしくない年です。家庭を持っていれば、家を空けるのも大変でしょう。
恋もしているでしょうし、仕事の重圧から鬱になっているかもしれません。
そういう、感覚がまったくないから、東京で就職したばかりの女の子たちが同窓会にやってきたという説明的な台詞が続くだけです。
そのためか、最初の10分間ぐらいは、会話の意味がよく理解できませんでした。台詞にリアリティがないから会話が弾まない、ということは心に響いていないのです。

解決策
こういうときのつかみは「あの人は私だ」と思わせることです。
久しぶりに会えた。見栄を張るか、弱みを見せるか。それまでの付き合いが見えてきます。
もうひとつ付け加えると、彼女たちは劇中に登場する先生たちよりも、年をとっているはずです。

技術的な問題だけを、まずとりあげます。

1991年に離島では携帯電話はない。
携帯電話がはいつの間にか当たり前のようになりましたが、初めて見たのは1988年の山本寛斎さんのファッションショーでのことでした。大きさは弁当箱ほどで、肩に下げてました。本格的に普及しだしたのは、1998年以降です。だから、体育館に電話をかけることは不可能です。職員室の電話に呼ばれたのなら、今度は奇跡を見ることはできません。

2.3番目の奇跡は?そして4番目の奇跡は?

1991年の奇跡の17年前には一週間山の中をさまよった子供が無事に救出されました。
その17年前には山火事で100軒の家が焼失したが、何かに導かれたのか一人の死者も出なかった。
では、今回の奇跡は何なんでしょう。
2つ考えられます。

ひとつは、体育館にいないはずの先生が姿を現して、その幻のおかげで中学生たちともう
一度お芝居をすることになったし、島にも定住することになった。

もうひとつは、なぜかリゾート開発が中止になった。

最初の奇跡は、前の二つの奇跡と比較するとすごく貧弱な奇跡です。これは、奇跡そのものが貧弱なのではなくてそこに至る登場人物の感情が貧弱だから、奇跡が貧弱に見えるのです。
次の、リゾート開発が中止になった、というは奇跡どころか、とんでもない話です。
島がどうしようもないから、リゾート開発しようとする。でも、それによって、自然が失われる。自然を守るためには、リゾート開発は中止したほうがいい。でも、結局そうしたら島には誰も住めなくなります。

実は時間設定にリアリティがないというところで触れようとしたことに、1991年+17年の時の島の現実が見えない、というのがあります。今島はどうなっているのでしょう。

さらに、1991年+17年目にジュウシチネンゼミはどんな奇跡を起こすつもりなんでしょう。

解決策
リゾート開発がすべて悪いはずがありません。
画一的で自然を無視したリゾート開発は、結局利益をもたらさない、というだけなのです。
私だったらこの脚本はこうします。

村長「では、撤退されるんですか」
社長「いいえ、リゾート開発は続けます」
村長「でも、今やめるとおっしゃったではないですか」
社長「夜、空を見上げたら、空にはこんなに星が光っているんだって、それを思い出してもらえるような、そんなリゾート地にしてみようかと思ったんです」
村長「でも、ゴルフ場がないと」
社長「大丈夫です。世の中には、ゴルフの嫌いなお金持ちもたくさんいますから」
村長「本当ですか」
社長「ええ、たぶん。ね、先生(と生物学の教授に)」

と、長くなったので本日はここまで