演劇書き込み寺

「貧乏な地方劇団のための演劇講座」とか「高橋くんの照明覚書」など、過去に書いたものと雑記を載せてます。

立松和平さん死去

2010年02月09日 15時29分40秒 | その他
大駱駝艦の宇都宮公演をちょこっとだけ手伝った時の主催者が、立松和平さんだった。
楽屋に現れた立松さんはロングのコートでかっこよかったものだ。

宇都宮在住だった彫刻家の丑久保健一さんと立松さんが
ニュースステーションに出演したときは
ディレクターに強要されたのか
台地を削る彫刻家「丑久保健一」さんを立松さんが訪れるという
妙な芝居をしていた(本当に地面を削っていたのだ)。
これには笑えた。

丑久保健一さん
http://www.ushikubokenichi.com/history/index.html

丑久保健一さんには短い間だったけれど
お世話になって
その後、訪れることもないまま
2002年には亡くなられてしまった。

天国でまた、ニュースステーションのときの会話を演じているのだろうか。
「耳を澄ますとわが盟友、丑久保健一が大地を刻む音が聞こえる」

「遠雷」好きだったな。

合掌。

視点

2010年02月08日 22時36分58秒 | 演劇
昔、風煉ダンスの「悪漢」という野外公演を観にいったことがある。
舞踏集団が参加していたり、音楽が渋さシラズオーケストラの生演奏だったり
高さ8mぐらいの城が100mも移動したりといろいろな要素が混じっていたのだが
観た時には音楽に負けているな、と思ったものだった。

ただ、それは演劇として自分が観ていたからだと最近思うようになっている。
彼らにしてみれば、もう少しコンプレックスしたものを目指していたのだろう。

こういう場合は、会話がかみ合っていないようなものだから
批評することは難しい。

でも、立っているところがしっかりしていないと
結局、負けているという印象を与えることになると思うのだが。

子供ミュージカルを手伝ったときも
大学生の目的は、子供たちの交流だったので
どうしても、ミュージカルに重点がいかない時があった。

視点をどこにおくか
目的をどこに置くかは、いつも難しい。

寺山修司を観たかった

2010年02月07日 21時59分57秒 | 演劇
最近、寺山の「書を捨てよ町に出よう」に出演されていた方からメールをいただき
そういえば「寺山作品」は舞台で観たことがなかったと、再び思った。
なぜかといえば、10年ほど前にI・K子さんと話をしたときか、メールでのやり取りで「寺山作品は生は違う」と言われたからだ。
I・K子さんは黒テント、状況劇場、天井桟敷のすべてに出演された方なんで、「寺山って面白くないと思いませんか」と私が質問したのに答えてくれたものだ。

やはり芝居は生で観てみないと、何もいえないのだなと
思わずにはいられない。

1972年に観た東京キッドの「八犬伝」は寺山とは遠いところにいた作品なのだろう。

あの、猥雑さを、あの分からなさを、ぜひ観てみたかったと
今になって悔やまれる。

粗雑と感動は関係ない

2010年02月01日 20時00分00秒 | 脚本
韓国ドラマの「冬のソナタ」を観ると、
脚本の前後のつじつまが合わなかったりして
突っ込みどころが満載なのだが
かといって、「冬のソナタ」に心を動かされる人はたくさんいる。

つまり、脚本に少しぐらい矛盾やおかしいところがあっても
観ている人はほとんど気にならない、ということだ。

それでも、中には気になる人もいるわけで
一旦気になるとそういうところにばかり
目が行ってしまうということになる。

また、細かいところを本当で重ねたほうが
大きな嘘がつける、というものだ。