真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

9月29日

2010年09月29日 19時03分48秒 | Weblog
9,981位 / 1,472,113
昨日の歩数:4296歩
起床時間 :8時07分
血圧   :104    59
脈拍   :67
体温   :35.4℃
体重   :66.6㎏

歯磨き 部屋に戻る
8時35分妻が出かけて行く気配
体温と血圧を測り下に行き体重を測る。
朝食を食べる
着替える
9時35分長男出かけて行く。
パソコン
妻帰宅して14時昼食
15時前バイクで家を出る
中央図書館に行き予約しておいたCD7点をすっかり忘れていて取りにいく。
 岡野係長に「忙しくない」と尋ねる。「忙しいが何」と聞いてくるので「少しお話が」と言い事務所で15分ぐらい、お話をする。
手プロに向かう、やはり原動機自転車と言う制限が無くなり、と言ってもスピードを出せてもせいぜい45㎞それでも気を使わないで走ると言う事がこれほど疲れないとは、考えも及ばなかった。
手プロに行きと言うのはさほど用事もないが、ナンバーを変えたバイクで走ってみたいという気持ちになったのが理由の一つだろう。
15時20分手プロに着く。すぐに資料室に行き、森室長と話をする。このところの雨のせいなのか、前に伺った時には、大分よくなったと言っていた足のほうがまた悪化しているようであった。

 15時31分電話をもらう、登録されていない番号
JTB首都圏 チーム埼玉事務局 制作ディレクター法人営業埼玉支店の海尾泰弘さんからであった。
 この人との経緯は、埼玉県内で手治虫先生のゆかりの地を巡る旅を計画している、手邸から手プロを巡るウォーキングを先生誕生日の11月3日に開催している私の事を知って、新座を巡る計画の協力を尋ねられたのであった。
あいにくその計画は実現できなかったが、飯能にある鉄腕アトムの銅像を建てるにあたって、活躍なさった、元虫プロ出版部の野口勲さんと飯能での企画が進行していると聞いていた。
 それが11月3日に行われるという、わざわざご挨拶下さった電話であった。
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埼玉体験旅クラブ
http://taiken.sainokuni-kanko.jp/

その企画はこちらに詳しく出ています

知られざる手塚治虫 埼玉ゆかりの地を求めて
http://taiken.sainokuni-kanko.jp/travel/detail.php?id=1007450
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野口さんは、私が昭和42年虫プロ商事の「コム」が出版される前のころから社長室に移動になり、見張り役として四六時中先生の傍にいたため編集者の野口さんを存じていた。
3,4年前偶然野口さんのホームページを発見して、メールを出したりしたが、私は目立たないし、大人しくしていたので私の印象は覚えていないらしい。
 今の写真を見たが当時と少しも変わらない面影であった。
私が、社長室に行ったのは昭和42年だからすでに漫画部は中村橋の2階家に引っ越していた。
出版部も池袋にありコムが発刊される前のことであった。
 社長室には若い男性が一人と言う事もあって、とまりは(ほとんど貫徹)私の役どころとなった。いろいろな意味を含めてはいるが、ていの良い見張役である。
手治虫と編集者、スタジオ虫プロとの緩衝役でもある。手先生とじかに接触しないように努める役目なのであった。

 手治虫と話すことが多くなる、つまり話しかけるのではなく、話しかけられる。
そんな時仲良くなった漫画部の人から注意を受けた。

手先生も人の子、漫画家仲間にも好きな人嫌いな人がある、嫌いと言うよりライバル視している。何かのきっかけで先生から、こんな作品をどう思いますかと尋ねられるだろう。
しかしうっかり返事をしないほうが良い。先生がその漫画家をどう思っているのか知っていれば答えもわかる。
知らなければ読んでいませんとか先に先生の意見を聞いたほうがよいだろう、と言うのである。
その理由をたぶん漫画部林君あたりから聞かされた話である

私が入った昭和40年ごろの話。出版部に新人が入社した、
入りたて、そうそう手番をやらされたそうだ、
その時、雑誌何誌かの締め切りが重なっていた。
先生が気晴らしのためか、その新人さんにあれこれと漫画家の作品の感想を尋ねたそうである。
当然知っている限り、思った所を正直にを答えた、当然悪気など微塵もなく。
 手図か先生も笑顔でそれを聞いていたそうだ。
そのあとのこと
 彼の知らないところで、恐ろしいいこと起こった、
時間が無くなり切羽詰まり、二進も三進も行かなくなる。
そうすると編集者たちが集まり一発即発の喧々囂々。
矢面が手先生に向けられる。
寝不足で疲れ果て、今にも死にそうなその顔には鼻のところまで眼鏡がずれて今にも落ちそう、
肩をここまで落とせるのかとばかりうなだれて、
決まり文句が先生の口から出る。
「僕のせいじゃないんですよ」

 つまりその新人さんと話していた時間が悪いのだ、と言う。

ライバルを褒められたので内心面白くもなかったのだ。
編集者たちから向けられた、刃を交わし、その新人のせいにした。
 自分からは言えない先生、ほかの出版社の編集長に電話をして、
その新人を長話しないよう注意してほしいと言った。
何も知らないその新人はいきなりほかの社の編集長に、胸ぐらをつかまれ、手の書く邪魔をするな、と脅されたのだという。
彼が言うには、ライバルを褒めたので、面白くなく、その腹いせだったのだろうという。

しかしそんな子供っぽい手先生だが、そのあとが大変で、仕事が片付き一息入ると、
はたから見ても後悔、して気を使うのがわかったそうだ。
 たとえば用事もないのに、話しかけねぎらったり、はたまた、お茶を入れてやったりであったらしい。

 私は、その話を聞いて、その新人さんは何とか原稿を貰えただろうが、何かと気を使ってもらったことなど覚えているわけもなく
なぜ関係ない編集長が来て脅されたのか、いまだに分からないだろうとな思った。
 でもそんなかわいいところのある手先生だからすべて赦しちゃうんだよね、と最後に言っていたが。
いろいろあった社長室だがその通りだとうなずいていた。

その後、3,4年前このエピソードは野口さんも「手先生の思い出」としてホームページに書いておられる野を知った。
http://noguchiseed.com/
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 久しぶりに野口さんのことを思い出し長々書いてしまった。
まあ、たまにはこんなのも良いのでは。
 吉村先生に会って帰ろうと思ったがあいにくすでに香港へ行ったそうだ。
なら、小林先生だけでも、しかしお休み。
 16時15分手塚プロを後にする。川越街道に出て次の信号を右折。2段階右折しなくて済む。
新座駅からPCデポに行く。弟に頼まれたパソコン3万円以下を探す。
あった、XPだけではなくWindows7も、10.1インチのminiパソコン
店員さんに説明を聞き断って写真も撮らせてもらう。
無線ランについても説明してもらう。
16時44分弟に電話をする。
ワープロができてエクセルも、大きいサイズのノートパソコンが良い。
サイド店内に戻り、中古パソコンで3万円以下のを写真に撮る。
17時少し先のリサイクルショップを覗く。薄暗くなってきたその店から川越街道に出る、
後方からの車がないので次の信号を右折しようと走らせる。
しかし45㎞しか出ない。信号が変わり後ろから来る車がどんどん近づいてくる。何とか次の信号の右折車線まで、来れた。
18時過ぎ家に
少しつまみ食いなど
20時夕食に呼ばれる。
その後少し歩こうと六仙公園に行く何回り化して7千歩を超えたところで9時、家に戻ろうとしたところ21時1分携帯の呼び出し。弟からであった。パソコンのこと高知に帰ったことを伝えていなかったこと、次男のこと、などなど話21時27分家に戻る。
21時半風呂に入る。
パソコンでプログをワープロで書いている。
0時38分長男が帰宅
0時45分区切りのよいところでプログに書き写し寝る準備をしよう
 
コメント
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