貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

1 深川から鳴海 

2016-11-26 09:13:39 | 日記
 
 1 深川から鳴海 

  貞享4年10月25日~11月7日 14日間で鳴海の知足亭に宿泊。

  戸塚から小田原、箱根、吉原、府中、金谷、見附、白須賀、藤川の各

 宿場町で泊まり、345.8キロの行程をひとり旅。一日30数キロの行脚

 であり、やはり健脚である。

  鳴海宿から保美村、伊良湖岬から伊勢への旅は、次回以降に回すことにし、

 その時にまとめることにする。

 京まではまだなかぞらや雪の雲 寺島菐言(ぼくげん)亭にて

  めずらしや落葉のころの翁草  如意寺如風亭にて

  星崎の闇を見よとや啼く千鳥  寺島安信亭にて

鳴海には、千鳥塚あり、芭蕉筆による石碑があるという。

  千句塚公園にも句碑あり。

ある雪の日の青梅庵前


おいの鼓舞覧 (こぶみ)~ 『笈の小文』紀行

2016-11-26 09:00:56 | 日記
おいの鼓舞覧 『笈の小文』紀行

  「百骸九竅の中に物有。かりに名付けて風羅坊といふ。」という書き出し

で始まる『笈の小文』。

  この書き出しも『奥の細道』と同じように、リズミカルで凄いものである。
 
 荘子の斉物論からの引用であるが、「百骸」は「百骨」、多くの骨の意。

 「九竅」は、体にある穴即ち、二目、二耳、二鼻孔、一口、二便孔。

 「百骸九竅」で、人間の体の意だ。

  「風羅坊」とは、芭蕉の別号。風に翻る薄物、の意でもある。

 私の体の中にも風羅坊有り。

  4月末のある会で、「今、どうしているのですか。」と聞かれ、「風羅坊やっています。」

 と応えたが、その方は、至極真面目な女性で、意味がわからなかったみたいだった。

  芭蕉は、その続きとして、「誠にうすきものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」

 と説明し、「かれ狂句を好むこと久し」と自己を追跡。そして自己を分析している。

  あれだけの事をなしても、究極は「無能無芸」ではないかと裸の自分を語る。
 
  私も同じような虚無感を底流で抱き、自己の平安を得るためにある意味でもがいているのかも

 しれない。

  生涯のはかりごとは、●●と○○に携わったこと。その事実は不動のことだが、真の充足で私を

 満たしてはくれなかった。「造化に従い、造化に還れ」ということか。

  「古希からのより道」と手直しし、第Ⅲとして、「笈の小文」の追跡を隠居の出発として敢行。
 
 夏の真っ盛りではあるが、「おいの鼓舞覧」(「老いの鼓舞覧」と「自分のといういの「おい」の

 鼓舞覧」と掛けて)としてまとめることにした。

  さて、「笈の小文」は、1687年(貞享4年)11月から翌年5月までの半年間余りの旅である。

 44歳から45歳という齢にもなった芭蕉は、野ざらし紀行の旅から2年余りが過ぎていた事もあり、

 血気はやっていたのでもあろう。

  「古池や・・・」の傑作句ができ、その新風は、名古屋や京の俳壇に広まり、芭蕉の名声は一段と

 高まっていたという。其角亭で送別句会が開かれ、その時、「旅人と我名呼ばれん初しぐれ」

 という句を披露した芭蕉の「旅に生きる」自分を誇らしいものにしている感が伺える。

  そして、名古屋まではひとり旅なのである。ひょっとすると、芭蕉が望んだひとり旅であり、

 お忍びの旅だったのではないかともいわれている。

  会いたい人がひとりいた。空米売買の罪で、家屋敷、店舗など全て没収され、伊良湖岬に近い

 保美の里へ流刑された杜国である。

  彼は芭蕉が41歳の時、名古屋句会で出会う。女性にしたいほどの美貌の若衆であったらしい。

  芭蕉は、たちまち杜国に心を奪われたといわれている。

  「杜国におくる」と前書きのある「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」 という句には、

 芭蕉の切々たる心情というか、情愛が込められているといっても過言ではない。

 長慶寺の石楠花