おいの鼓舞覧 『笈の小文』紀行
「百骸九竅の中に物有。かりに名付けて風羅坊といふ。」という書き出し
で始まる『笈の小文』。
この書き出しも『奥の細道』と同じように、リズミカルで凄いものである。
荘子の斉物論からの引用であるが、「百骸」は「百骨」、多くの骨の意。
「九竅」は、体にある穴即ち、二目、二耳、二鼻孔、一口、二便孔。
「百骸九竅」で、人間の体の意だ。
「風羅坊」とは、芭蕉の別号。風に翻る薄物、の意でもある。
私の体の中にも風羅坊有り。
4月末のある会で、「今、どうしているのですか。」と聞かれ、「風羅坊やっています。」
と応えたが、その方は、至極真面目な女性で、意味がわからなかったみたいだった。
芭蕉は、その続きとして、「誠にうすきものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」
と説明し、「かれ狂句を好むこと久し」と自己を追跡。そして自己を分析している。
あれだけの事をなしても、究極は「無能無芸」ではないかと裸の自分を語る。
私も同じような虚無感を底流で抱き、自己の平安を得るためにある意味でもがいているのかも
しれない。
生涯のはかりごとは、●●と○○に携わったこと。その事実は不動のことだが、真の充足で私を
満たしてはくれなかった。「造化に従い、造化に還れ」ということか。
「古希からのより道」と手直しし、第Ⅲとして、「笈の小文」の追跡を隠居の出発として敢行。
夏の真っ盛りではあるが、「おいの鼓舞覧」(「老いの鼓舞覧」と「自分のといういの「おい」の
鼓舞覧」と掛けて)としてまとめることにした。
さて、「笈の小文」は、1687年(貞享4年)11月から翌年5月までの半年間余りの旅である。
44歳から45歳という齢にもなった芭蕉は、野ざらし紀行の旅から2年余りが過ぎていた事もあり、
血気はやっていたのでもあろう。
「古池や・・・」の傑作句ができ、その新風は、名古屋や京の俳壇に広まり、芭蕉の名声は一段と
高まっていたという。其角亭で送別句会が開かれ、その時、「旅人と我名呼ばれん初しぐれ」
という句を披露した芭蕉の「旅に生きる」自分を誇らしいものにしている感が伺える。
そして、名古屋まではひとり旅なのである。ひょっとすると、芭蕉が望んだひとり旅であり、
お忍びの旅だったのではないかともいわれている。
会いたい人がひとりいた。空米売買の罪で、家屋敷、店舗など全て没収され、伊良湖岬に近い
保美の里へ流刑された杜国である。
彼は芭蕉が41歳の時、名古屋句会で出会う。女性にしたいほどの美貌の若衆であったらしい。
芭蕉は、たちまち杜国に心を奪われたといわれている。
「杜国におくる」と前書きのある「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」 という句には、
芭蕉の切々たる心情というか、情愛が込められているといっても過言ではない。
長慶寺の石楠花