朱印寺領って?
令和元年8月2日
「朱印領および黒印領とは、
(領有権の承認・確認)された土地
のことである。
朱印領は幕府より朱色の印(朱印)
が押された朱印状により、黒印地は
大名より黒の印(黒印)が押された
黒印状により所領の安堵がなされた
ことに由来する。
れる広大な所領を有していたが、
戦国時代に諸大名により所領が
でほとんどが所領を失なう。
江戸時代に入り、各寺社に、かつて
領有していた土地の一部が返還され、
幕府・大名より朱印状・黒印状に
よってその所領が安堵された。
朱印地・黒印地は寺社の私有地
ではなく公領という扱いであるが、
領内の租税は免除されており、
収益は全て寺社のものとなった。
しかし、その土地は最も広い
最も狭いものではわずか1石で、
朱印地・黒印地からの収益だけで
寺社の経営が成り立った例はほとん
どなく、多くは自ら開墾した土地、
あるいは大名などから寄進された
ということ。
さて、鉄舟寺の由緒。
飛鳥時代藤原氏の出身である久能
忠仁が、現在の久能山東照宮付近に
建立した堂に始まる。
その後、奈良時代の僧行基が
来山して久能寺と号したという
(『久能寺縁起』)。
平安時代に入って天台宗に改め
られ、建穂寺と駿河を二分する
勢いで栄える。
永禄13年(1570)、武田信玄が
久能山に城を作るため現在地に
移され、宗旨も変わる。
江戸時代には朱印寺領として
200石余りを与えられ、多くの
支坊を有したが、江戸時代後期
あたりから衰退。
明治に入ると無住になって寺は
荒廃してしまう。
その後、旧幕臣で明治以降に静岡
藩権大参事も務めたこともある
山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を
招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改
める。
そのため、鉄舟の書跡の遺品も多い。
鉄舟寺のいわれもよく分かった。
この人が、鉄舟。
鉄舟の略歴碑
鐘楼
文殊地蔵
身代わり観音