令和4年9月3日(土)
祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。
絶体絶命の中、
祐慶は旅の荷物の中から
如意輪観世音菩薩の像を取り出して
必死に経を唱えた。
すると、菩薩像が空へ舞い上がり、
すると、菩薩像が空へ舞い上がり、
光明を放ちつつ破魔の白真弓に
金剛の矢をつがえて射ち、
鬼婆を仕留めることとなる。
鬼婆は命を失ったものの、
観音像の導きにより成仏する。
祐慶は阿武隈川のほとりに
祐慶は阿武隈川のほとりに
塚を造って鬼婆を葬り、
その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。
鬼婆を得脱に導いた観音像は
「白真弓観音(白檀観音とも)」と呼ばれ、
後に厚い信仰を受けたという。
その昔、岩手という女性が
その昔、岩手という女性が
京の都の公家屋敷に乳母として
奉公していた。
だが、彼女の可愛がる姫は生まれながら
にして不治の病におかされており、
5歳になっても口がきけないほどだった。
姫を溺愛する岩手は何とかして
姫を救いたいと考え、
妊婦の胎内の胎児の生き胆が
病気に効くという易者の言葉を信じ、
生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。
奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は
奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は
岩屋を宿とし、標的の妊婦を待った。
長い年月が経ったある日、
若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。
女の方は身重である。
ちょうど女が産気づき、
夫は薬を買いに出かけた。
絶好の機会である。
岩手は出刃包丁を取り出して
岩手は出刃包丁を取り出して
女に襲い掛かり、女の腹を裂いて
胎児から肝を抜き取った。
だが女が身に着けているお守りを目にし、
岩手は驚いた。
それは自分が京を発つ際、
娘に残したものだった。
今しがた自分が殺した女は、
他ならぬ我が子だったのである。
あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、
あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、
以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、
人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。
これらの話を、
宝物資料館で唯ひとり映像で
観ることになる。