令和5年6月22日(木)
川﨑市: 影向(ようごう)寺
多摩川の広大な沖積低地を望む
多摩川の広大な沖積低地を望む
宮前区野川東耕地の高台にある、
威徳山影(よう)向(ごう)寺。
珍しい名前だ。
<仁王門>
当寺は、国指定重要文化財・
木造薬師如来両脇侍像や
神奈川県指定重要文化財・薬師堂
などの豊かな文化財を伝える
古刹である。
<仁王像>
<本殿>
宝永7年(1710)
撰述の『影向寺仮名縁起』によると、
奈良時代の天平12年(740)に、
聖武天皇の命を受けた
僧行基によって開創される。
ところが、近年の発掘調査の結果、
ところが、近年の発掘調査の結果、
奈良時代と推定される
大型の掘立柱建物跡・瓦塔片・
塔の基壇などが確認され、
さらに出土した古瓦の様式から
創建の年代は白鳳時代末期
(7世紀末)にまで遡ることが
確実となる。
また、薬師堂解体修理に伴う
また、薬師堂解体修理に伴う
基壇部の発掘調査では、
創建当時の堂宇が現在の薬師堂と
ほぼ同じ位置に建てられていた
ことも判明する。
そして、
金堂(本堂)の基壇は
創建以降、版(はん)築(ちく)工法による
掘り込み基壇が
8世紀中頃から後半に構築される。
15世紀前後頃に行われた改修
を経て、現在の薬師堂と
同一の基壇が江戸時代の
元禄7年(1694)に築かれるまでに、
少なくとも4回にわたって
変遷していた事実も解明されるという。
影向寺の性格や景観は
時代とともに変遷しても、
白鳳時代にともされた
法(ほう)燈(とう)は、
千三百年もの長い歳月を経た今日に
至るまで、絶えることなく連綿と
伝えられる。
<影向寺史の出版記念碑>
元禄7年(1694)5月、
江戸に住んでいた芭蕉は、
子の治郎兵衛と共に
郷里の伊賀へ旅立つ。
その時江戸の門人との別れを
その時江戸の門人との別れを
この川崎宿の榎だんごの店でかわす。
その時詠んだ句が
その時詠んだ句が
ここでも立派な石碑に。
<芭蕉句碑>
「麦の穂を
たよりにつかむ
別れかな」
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