我が家の鉢植えの南殿桜が 秋・・いつからか色づきをはじめ 今日最後のひと葉になった。
最後の一枚、記念に写真に撮った。 そうだ芸術の秋、色鉛筆で描いてみようか、なんとかバトルの番組みたいに。
そんな余裕もない癖に。
部屋に置いてあるひとつの盾がある。 ””夫婦円満””の。 それには思い出がある。
2015年の元旦、義母は逝かれた・・97歳で。 最後の1年半を施設で過ごされた、認知症を患われていて。
心の中で(最後まで、お世話下さったお嫁さんだけは忘れないで下さい・・)と祈っていたが、叶わなかった。
訃報が入ったのが、元旦の夕方遅く、昼間からのおせちをわいわい言いながら娘達家族みんなで頂いていた。
翌日、しまなみへと、孫、ひ孫を乗せて車を走らせた。 中国道は雪が降ったり所々積もっていた。
子、孫ひ孫総勢36名が揃った。 鹿児島から息子も長男を連れ帰って来てくれた。
私は、これは賑やかが好きだった義母へのお天道さまの采配心遣いではないかと密かに思った。
皆さん元旦の朝は家族で祝うことが出来たし、三が日は皆お正月休みである。 そのお陰で皆が帰省で来た訳で。
全て自然の成す技なれどすごいことだと思った。
誰も分からなかった母ではあるが、せめて最後は後へ続く者たちで皆に見守られ旅立ちたい願ったに違いない。
人の悪口を一切言わなかった母、熱のあったひ孫まで見送られ旅立った、良かった・・救われた気持ちだった。
母もそうだったが、義母もデイサービスを好まなかった、どちらかと言うと嫌がった。
それは互いの兄夫婦の優しいお世話のお陰で、お姉さんの料理と家の居心地がとても良かったからである。
デイサービスに行っている時だけが、お嫁さんがほっとできる時間だと心得ていたのだ。 現実、そうだった。
最後まで家でお世話して下さっていた兄夫婦、一度結婚記念日にせめて一泊旅行でもと兄弟でプレゼントしようと
提案したら、「家を一度も空けたことが無いし、そんな日に何かあったら一生悔いが残る」と丁重に断られた。
気持は分からなくはない。 みんなでマッサージ器をプレゼントした、今でも置いてある。
その年の10月、夫婦揃って元気なうちにと、5人兄弟夫婦総勢10名で、3泊4日の北海道旅行をしたのである。
美瑛観光の夜、ホテルの部屋に入ったときに、「わーー! 何? すごーい!」
3人の子供たちから、コスモスの花、夫婦円満の盾、御祝い電報がテーブルの上に飾られてあった。
長女の提案でホテルに届けたのを花瓶に生けて下さったのだろう、10日の結婚記念日に祝ってくれたのである。
旅の途中、仲の良い兄弟夫婦皆が夕張メロンとケーキで祝い、夫と私に鳥打帽とブローチのサプライズ。
7年前の出来事である。 本当に夫の兄弟夫婦も仲が良い、盆暮れは、男4人でゴルフだった、必ず。
御祝い電報ほどの杉の木の盾で、私たちには気恥ずかしい円満・・の文字。
そこまで至らないが故に、日々部屋に飾るのは恥ずかしい、いつも思っている。 おばあさんなのに。
仲は悪くはない、それほど円満でもない、普通、私からすれば。
不運な空気の時、そらぞらしくて盾を裏返す。 表にしたり返したり・・ の7年である。 今は表。
ブロ友のyokoさんが、あるときブログにアップされていた”網ほおづき” まさに芸術である、感動した!
作り方は簡単、水につけておくだけです、とあり、丁度日曜に届く花のおじさんから頂いたのがあって、やってみた。
時々水を変える、袋の部分が溶けて葉脈だけが残る、すごく不思議、そして美しい。
上手くは出来なかったが何とか出来た、が、私にはyokoさんのように、素晴らしく撮るコツも技もセンスもない。
ただお皿にのせて撮った。 作っていますと言ったのでアップせずにいるのも気になって、落葉の二枚にのせて、
今日と言う日に重ねてみた。 いい夫婦の日。
本当に色々とあった49年間だった。 夫にも様々な思いをさせた。
何度も病気をして手術をして、今でも治療中である。
随分年上の方から「それだけ夫を痛い目にして、よほど悪い奥さんやね」と笑いながら言われたことがある。
私が悪いんや、私が。 言われたその言葉が消えない。 思い出すと泣きそうになることもある。
ごめんなさいと言っても変われないけれど・・。
でも・・「人生一生が勉強・がんばろう」いつも母はそう言ったから、一生努力する。
今日をより善く生きる為に。
「あんたとこは何があっても、いざとなったら家族みんなで力を合わせて乗り越えるから心配してないよ」
優しくも厳しかった母の、唯一の褒め言葉であろうか。 これも遺言と思っている。
「親が頼りないから、子供がしっかりするんよ」 そうとも言われた。
母・・懐かしい、もうすぐ百か日である。
毎日、盾・・表にできますように・・。