みゆみゆの徒然日記

日本の伝統芸能から映画や本などの感想、
心に留まった風景など
私の好きなことを綴っているブログです♪

暖冬?!小さな春

2016年01月10日 | 写真~風景・植物
今年は暖冬ですね。さすがに夜は寒いけど・・・富士山にも雪が少ないし・・・

地元ニュースで、熱海梅園の梅まつりが始まったとありました。こちらは例年通りの開催だろうし、早咲きの梅は咲いていておかしくないのでしょうけど、それでも、結構咲いていてびっくりしました。我が家の梅はどうかな?と思って見てみると、咲いているじゃありませんか!いつも、1月末くらいに記事にしていたと記憶していますので、やはり早い。ここ数年は、梅が咲くと記事にしているので、去年はどうだったかな?と見てみると、2月2日に「梅が咲きました」というブログ記事にしていました。早い!!!(もっとも昨年は遅かったようですので、余計に・・・)



梅(?)つながりで、蝋梅も。ツルツル、ツヤツヤ、そして良い香りもします。

バス停 「銭取」

2016年01月10日 | 雑感~ひとりごと
エア・フェスタ浜松に行ったときのことなので、もう2か月も前のことですが(早い・・・)、前泊する宿に向かうバスに乗っていたら、面白いバス停の名前がアナウンスされました。

その名も・・・

銭取(ぜにとり)

不案内な土地で乗るバスでは、なるべく案内が見えやすいところに座るのですが、思わず撮ってしまいました(笑)しかもタイミングが・・・「青少年育成センター」という宣伝(?)このバス停近くにある施設の案内(?)が・・・「銭を取るなんて悪いことはいけません」という感じになってしまったような気がします(笑)

ネタにしようと思いながらも、12月半ばまでエア・フェスタ浜松レポを書いていたので、すっかり放置状態になってしまいました。由来はネットですぐに調べたのですけどね。


気になるその地名の由来は・・・(ウィキペディア「銭取駅」(現在はないということ))
地名は、三方ヶ原の戦いの際、徳川家康が小豆餅附近の茶屋で小豆餅を食べた時に敵の襲撃に遭い、餅代を払わずに逃げ出した所、茶店の婆さんに追いかけられ、当地附近で取り立てにあった、という故事(但し史実ではない)に由来する[

史実ではないらしいとのことですが、史実だとしたら、家康は馬に乗っていたでしょうから、婆さんの移動スピードがすごすぎです(笑)

ちなみに浜松には、小豆餅という地名もあるということ。
徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べたとする伝説に由来する。
このエピソードにはさらに続きがある。家康が小豆餅を食べている時に武田軍が追ってきたため、家康は代金を払わずに馬に乗って逃げた。しかし茶屋の老婆が走って家康を追いかけ、やっと追いついて家康に代金を支払わせた。この老婆が家康に追いついたところが「銭取」という地名として残った。現在は小豆餅の町名は存在するが、銭取の町名としては存在せず、遠鉄バスのバス停(気賀三ヶ日線ほか40番台系統。行政地名としては中区和合町)として残っているのみである。ちなみに小豆餅と銭取の距離はおよそ6km程ある。
この逸話は後世の創作で、実際には三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を供える習慣が続いたことが地名の由来である。『浜松風土記』には慶長年間のこととして、浜松城主堀尾忠氏の弟高階晴久が三方ヶ原に立ち寄り茶店で小豆餅を食べたところ、次々と奇怪な出来事が起こったので慌てて店を飛び出し、町まで逃げ帰った。翌日、晴久は多数の供をつれて昨日の場所に行くと、うら寂しい大野原に三方ヶ原の戦いの戦死者の白骨が散乱していたので、掻き集めて焚いて埋め、小豆餅を供えて大念仏で法事を営んだことが由来であるとの記述がある[1]。また同様に、銭取はこの辺りに山賊がよく現れたことに由来する(山賊に銭を取られるため)。三方ヶ原の戦いがあった時期、三方原台地に民家まして茶屋などは存在しなかったが、当時の家康の必死の逃亡をよく表現した伝説として、長く地元の人々に親しまれてきた。


浜松基地の周りには、こんな歴史的な謂われのある地名が結構あるんですね~史実ではないにしても、それだけ歴史的な影響があったということなのでしょうか。