(承前)←その①に戻って読み直したいヒトはこの文字をクリック!
いよいよ親鸞の中心的な思想について(この本の記述とは逆になりますが)順に追っていくことにしましょう。
親鸞は『「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽往生は間違いない』といいます。
たとえそれが戯れに唱えたものであっても摩訶不思議な阿弥陀仏48の誓願によって極楽往生できるのです。
信仰は阿弥陀仏によって与えられるので、それが誰であっても平等に与えられます。信心も善行も德も智慧も一切関係がナイのです。
その結果、この世に生きる全員が極楽浄土に行ってしまうので、地獄は閑古鳥が啼き、牛頭馬頭をはじめとする地獄の極卒たちも暇で暇で仕方がない・・・この想像はちょっと笑えます。
※極楽浄土を思わせるハスの花の群落
ところで、極楽ってどんなところなのでしょう?
美しい蓮池があり、毎日穏やかに暮らし、死ぬことはなく、望むものは全て叶う、それが極楽でしょうか?
ジョン・ブアマンが撮った『未来惑星ザルドス』という映画があります。
この映画に登場するエターナル(不死人)たちは我々が思い描く極楽の住人といえるでしょう。
※エターナルたちの優雅な暮らし(ジョン・ブアマン監督『未来惑星ザルドス』1974年イギリス)
しかしエターナルたちは生に倦んで『自分たちを殺して欲しい』と思うようになり、獣人たちを操ってわざわざ自分たちに対する反乱を起こさせるのです。
※選抜された獣人、エクスターミネイターたちの反乱(ジョン・ブアマン監督『未来惑星ザルドス』1974年イギリス)
どうやら『あらゆる欲望が充足する』だけでは本当の極楽とは言えないようです。
親鸞はこのような極楽は真の極楽ではないとして化身土あるいは辺地浄土と呼んでいます。
生前善行を積んだり、修行に励んだり、と阿弥陀様の他力を頼まず、自力で成仏しようとする人はこのような浄土に500年留まった後に、真の極楽『真仏土』へと生まれ変わるのだと親鸞はいうのです。
真の極楽に生まれ変わるには自力を頼まず、ひたすら阿弥陀如来のお慈悲にすがれるよう念仏に努めなければならない、という訳です。
では真の極楽とはどんなところなのでしょう?
それは『あらゆるものが隈なく光で照らされる世界である』と親鸞は言うのです。
※真の極楽とは『光の世界』である!(ウルトラマンの故郷M78星雲『光の国』でイメージしてください)
親鸞の考えた極楽浄土は、光の国である。親鸞は阿弥陀のことを無礙光如来と言う。無礙光如来というのは、礙(さまた)げることのない光をいうのである。(中略) つまり真実報土の極楽世界は、光の世界なのである。光が妨げるものもなく、世界のすみずみまで及び、そしてこの光の世界が、永遠であるというのが親鸞の真仏土浄土のイメージなのである。
それこそが真の極楽『真仏土』なのです!
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光に対峙する闇というものがあるとするなら(親鸞の考え方を借りれば)この世こそ闇なのでしょう(→厭離穢土&欣求浄土)。
かくして「アフラ=マズダ対アーリマン」または「ジェダイ対シス」の如く永遠の争いを・・・ンな訳ないか。
この当時は今より暗闇を恐れていたし、
明かりのコントロールは夢、暗闇には魑魅魍魎もいた世界と思うが、
言葉通りの光と闇なのか、
闇は悪いイメージ、悪とか絶望とか、
光は善とか希望とかをあらわすイメージなのか?
ゴシック建築が光を求めて上に伸びているような物なのか。
神と光。仏と光。
(そんなに眩しいところでは落ち着いていられない、程々の光源が私には天国です、少しは闇も欲しい、ええ私は俗人)と文句を垂れてみた。
ついでに仏像が金きらりんの金箔とかも嫌い。光をあらわしているのだろうけど。
当時の灯明程度のすすけた薄暗い本堂で光り輝き、有り難い物だったのはわかる。
法然は第18願で「波阿弥陀仏」と御名を唱えれば皆往生。
親鸞は歎異抄の8で、念仏は極楽浄土に往生するための終業。簡単に往生を受けあっていない?と思っていたのだった。
ええ、全部妄想です。間違っているとも思う。