善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
教科書を見ても親鸞といえばこの『悪人正機説』が真っ先に頭に浮かびます。
しかし『まさにこれこそが親鸞に対する誤解である』と著者は主張するのです。
何ということでしょう。今から、その内容を見ていこうではありませんか。
※梅原猛『誤解された歎異抄』光文社 / 1990年1月30日 初版1刷発行
今まで多くの作家や歴史家が親鸞について書いてきました。
自らの抱える悪と対峙した親鸞は現代に生きる我々にとって身近な存在のように思えます。
では実際に親鸞とはどんな人物だったのでしょうか?
この本を読んで思うのは純粋に愚直なまでに法然の専修念仏の思想を突き詰めようとする親鸞の姿です。
親鸞におきては、たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるゝたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかさせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
まことにおそるべき信念の人なのです。
さて、世にいう承元の法難(または建永の法難)において親鸞は越後に流罪となります。
※承元の法難・・・後鳥羽上皇の侍女2人が法然の弟子の下に身を寄せたことに端を発する専修念仏弾圧事件。
驚くのは、この本には生前の親鸞がまったく無名だったとの記述があることです。
親鸞が法然の弟子となって日が浅く、かつ門弟の中における位置が低かったのにその罪が重かったのは、彼が法然門下の専修念仏の急進派であり、肉食妻帯に踏み切ったことによって、多くの人の顰蹙(ひんしゅく)を買っていたからであろう。
流罪が親鸞の思想に重大な影響を与えたことはまちがいないが、建暦元年(1211)、流罪がとけても、彼は都へ帰ろうとせず、常陸に居を定め、そこで、法然の教説を布教したのである。そして常陸で布教すること二十余年、彼は多くの弟子をつくったが、晩年、都へ帰ったのである。都は帰った後は、彼はほとんど布教活動をせず、隠者のような生活をして、九十歳の天寿を全うしたのである。
このような人生を送った親鸞は、その生きた時代においてまったく無名の人であったのである。この無名の人が、後に日本において最大の宗教家として尊敬されるようになるとは、おそらくそれを予想した人は、当時、誰もいなかったにちがいない。
ええ!?無名!!!親鸞がぁ!?
無名・・・そう、親鸞は都ではまったくの無名だった。
※『親鸞聖人像(熊皮御影)』鎌倉時代 / 奈良国立博物館蔵
彼が布教したのは常陸国であり、都ではまったく隠者のように暮していたのです。
その親鸞の晩年の隠居所に、関東を中心とする多くの弟子たちがやって来て、親鸞の教えを聞いた。しかし、その弟子の数はたいへん多く、その弟子の中には、親鸞の教えではないいろいろな異説を唱える人が多くなった。それで親鸞の面授の弟子である唯円が、親鸞の言行をはっきり語り、その異義どもを批判したのが、この『歎異抄』であるというわけである。
その成立の所以か、歎異抄には系統立てた思想の流れが乏しい代わりに、親鸞の生々しい声の響きが感じられます。
はなはだ魅力的なこの書によって親鸞の思想が理解されたために、親鸞の中心的な思想が抜け落ちてしまった、とこの本はいうのです。『悪人正機説は枝葉末節に過ぎない』と。
では、その中心的な思想とはいったい何なのでしょうか?
(つづく)←その②を読みたい方はこの文字列をクリック!
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私が読破できなかった本の中にこの歎異抄が入っております。
今でもチラっと見ても、すぐわきへ・・・
自分で買ったんでなく頂き物なのですが・・・
>『悪人正機説は枝葉末節に過ぎない』
楽しみに読ませていただきますね。
ただ歎異抄を読破できてないので・・・(;^_^A
-------🌟🌟🌟-------
古典を読むのは大変です。
どちらかといえば私も原典そのものにはあたらず、現代語訳や解説書に頼っています。
-------🌟🌟🌟-------
毎回、本の内容を紹介するブログを書いていますが、古来より三経義疏をはじめとして、注釈書を作るのはある意味「伝統」なのです。
そう思ってブログを書いています。
-------🌟🌟🌟-------
最近のヒトは本を読まなくなったので、その傾向を正したいという気持ちもありますが・・・。
-------🌟🌟🌟-------
じっくりと梅原流の歎異抄解釈をご紹介していきますのでお楽しみに!(そこに私なりのアレンジを施しますがご容赦を・・・全3回を予定)。
相当多彩だけれど
ひょっとしたら 実家は禅寺?
兄弟が継いでいる?
どちらも
血の繋がらない従弟が住職やってます。
ですから、そんなに濃いワケではありません。
うどん県出身なので真言宗です。
親鸞の結婚に当たって、まず「六角夢告」があり、その直後29で法然の弟子になり、またまた、その直後妻帯します。
つまり、あの聖徳太子が妻帯オケを出したという事は、当時の民にとって、十分正当化出来る理由だと思うのです。(ご自分の心にもね)
妻は九条兼実から「玉日」と、法然の勧めで「恵信尼」の二人を持ったとされていますが、
これってマインドコントロールではないが、、、
無名の優秀な弟子が、妻帯肉食、女人往生を説く法然のモデルケースとされたのかなと。
勿論、それが目立って、まだ無名でも、流罪なのでしょう、
まぁ法然一途だったから良いのでしょうけど、
彼には堂々と妻帯をしたという罪の意識は生涯無かったのか(子供ボロボロいるんでも無いとも言えん!)と。
田舎に静かに隠者も、それか?
無名でも弟子が多く!
さらに異説だらけでカオス化した教えを、「歎異抄」で後世にまで残した唯円の力も侮れん。
全てゲスパー。何となく隠者のように暮らしたから、感想書いてみただけ。
そもそもが自分の嘘(聖徳太子の夢の事が都合のいい嘘だった)と、
それに便乗した師匠のシナリオにさいなまれ、
生涯大人しくしていた?
ただし生涯、宗教指導者ではあり続けた。
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まず『信仰は阿弥陀仏から授かったものだから法然上人の信仰も親鸞自身の信仰もまったく同じである』と主張し『何を無礼な!』と憤る兄弟子たちとの間にトラブルがあったというエピソードが語られています。
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さらに『「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽往生は間違いがない』と他力の考えを突き詰めます。法然はまだ『善行を積む』修行も認める立場を取っていたのですが、とにかく念仏一本に絞ってしまいます。
ですから『念仏さえ一心に唱えれば肉食しようと妻帯しようと何の不都合もない』との考えに立ち至った、というワケです。
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親鸞の死後、またまた『自力も大事よね』的な考えが増えてきたために唯円は歎異抄を著してその間違いを正そうとした、ということらしいのです。
>親鸞の死後、またまた『自力も大事よね』的な考えが増えてきたために唯円は歎異抄を著してその間違いを正そうとした、ということらしいのです。
言われなくてもわかってるぅうう、
第一親鸞はカオス化した説法を正そうとして我が子に託すが、その子も直すどころか、カオス化して、破門しているじゃん(T_T)
②
>歴代ウルトラマンの殆どは登場するとき右手が「グー」です。タロウ(とその息子のタイガ)だけが右手が「パー」
ああ、そーですか、そーですか。流石モバちゃん♡すごーい、返事はイラナイ。