吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

スターウォーズ『最後のジェダイ』・・・楽しみにしています。

2017-12-15 08:00:19 | 映画・ドラマを観て考えよう

 ちゃーんちゃちゃーん、ちゃちゃちゃちゃーちゃ、ちゃちゃちゃちゃーちゃ、ちゃちゃちゃちゃーん。
 ちゃーんちゃちゃーん、ちゃちゃちゃちゃーちゃ、ちゃちゃちゃちゃーちゃ、ちゃちゃちゃちゃー(ちゃちゃちゃちゃちゃちゃっちゃちゃー)。・・・・・名無しの笛の踊り

 いよいよ今日公開!玄関先でライトセイバーを振り回す私なのであった!(アブネェ!)


 ちなみに、このライトセイバーはドゥークー伯爵仕様です(やっぱルビーを使った炭酸ガスレーザーの赤はイイね!・・・ちゃんと効果音も出ます)。
 今日はさずがに仕事で行けないが、土日にはゼッタイ観に行くのだ!!!待ってろよ!!!


ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(第1章)

2017-12-11 08:00:15 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護



 本来哲学は『この世界はいったいどのような姿をしているのか』を問う学問だったはずです。
 しかし自然科学の発達によってその役割は数学や天文学、素粒子理論等にその立場を譲ってしまったように思えます。
 そのような時代に哲学の役割とは何なのだろうか?単に理屈をこねくり回すだけの学問なのだろうか?
 一般に哲学は難しいと思われがちだ。特にその用語は難解だ。どうしてこんな難しい言い方をしなければならないのか?全くもって理解に苦しむものが多い、多すぎる。


※エドヴァルド・ムンク『叫び』

 私が(勝手に)敬愛する梅原猛先生は『難しいことを難しく語るのは誰にでもできる。難しいことを易しく語ることが大事なのだ』というようなことを仰った(テキトーな記憶にもとづいて書いているので一語一句正確なものではない、ご了承いただきたい)。私もその意見には全面的に賛成です。ある時、哲学者の方にその疑問をぶつけたことがある。その方の答えは『難しい概念を取り扱うには、難しさに耐えて考える訓練が必要なのです』というものだった。その時は『そういうものなのか』と思ったけれど、今になってみれば『本当にそれでイイのか?』と思えてならない。

 哲学などとと呼ぶから難しく思えるので、英語でいうフィロソフィはもっとくだけた感じなのです。『ものの考え方』くらいの語感だと思えます。そのように気軽に考えたいものです。

"What a wonderful philosophy you have." Mad Max (1979)

※マッドマックスより(『何でもするよ』の答えとして)『いい心懸けだ』って言ってます。

 で、ここに『20世紀最大の哲学書』なるものがあるのです。出版元の光文社は『カラマゾフの兄弟』の新訳を出して評判になった会社。この哲学書も読み易い文体で書かれ『普通に読める』とあるじゃないか。さらにこの本、実に薄い!(本文は150ページに満たない小著なのだ)。・・・それにしてもこんな凄い本が880円+消費税で買えるって、現代とは凄い時代なのだとしか言いようがない。


※ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』光文社古典新訳文庫/2014年1月20日初版第1刷

 しかしながら、この本が哲学に関する20世紀最大の転換点になったのは間違いないのです。
 で、これから読み進めていこうと思います(きなこママ以外誰もコメントしてくれなくなってもイイ!そういう決心で!)。

 では、最初のページです(本全体が、数字とそれに続く文章で構成され、数字はヴィトゲンシュタイン自身が附したものです)。

 1  世界はそうであることのすべてである。

 1.1 世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。


 さあ、いきなり難しいことが出てきた。これは論理学の世界観を示す言葉なのです。

 世界は何で構成されているか?地球や人や犬猫その他の動物,松梅桜その他の植物,・・・etc.と考えるのが普通ですが、論理学上はそうではないとヴィトゲンシュタインは言います。モノではなくセンテンスの総体が世界だ、というのです。

 こんな時『なんでや!』と言うのが関西人の特質です。

 そこで試しに『犬とは何か?』を考えてみることにします。



 実は『犬とは何か?』を説明するのは結構難しいのです。『イヌ科の動物の総称』では何の説明にもなっていません。犬を表現しようとするとこれはセンテンスになります。『犬は四つ足である』,『犬は尻尾がある』,『犬はワンワン吠える』・・・。論理学上は『こうした記述の総体が世界である』というワケです。

 1.11 世界は、事実によって規定されている。その事実がすべて事実であることによって規定されている。

 1.13 論理空間のなかにある事実が、世界である。

 1.2 世界を分解すると、複数の事実になる。


 こうして初めてアリストテレス的三段論法も成り立つのです。①『四つ足で尻尾があってワンワン吠える生き物は犬である』→②『ポチは四つ足で尻尾があってワンワン吠える』→③(結論)『ポチは犬である!(おおっ!)』



 (つづく)←無謀にも第2章を読みたいと思ったヒトはこの文字列をクリック!


今日は何の日・・・今日は『真珠湾攻撃』の日です。

2017-12-08 06:00:30 | 日々の私の主張とか考察とか

 1941年の今日、日本は真珠湾攻撃に踏み切り日本とアメリカは戦争状態に突入した。


 宣戦布告が遅れたためにアメリカはこれを『騙し討ち』と判断、格好の戦意高揚材料として利用した結果、物量に勝るアメリカに日本はなすすべもなく敗戦を迎えることとなる(日本軍は南方の資源を確保して長期戦に備えたが、さっさとアメリカ本土を叩いて早期講和に持ち込むべきだった)。

 実はアメリカは真珠湾攻撃の情報を掴んでいて真珠湾から空母を退避させていたのだが、そんなことを知る由もなく、日本はいわば燃え盛る炎の中に飛び込んで行ったのである。経済封鎖された日本はどうしようもなく戦争という解決策を選んでしまったが、今も昔も戦争は最悪の解決策なのだ。


 仮にアメリカと中国が戦争したとすると、直接の戦闘行為以外でも、アメリカでは安い中国からの製品が輸入できなくなって食糧から日用品はてはパソコンまで供給が大幅に滞ることになります。中国は製品の輸出先を失い、多くの工場が在庫をどうやって捌くかに頭を悩ませることになるし、富裕層はアメリカ製の高級品を使えなくなる、という訳です。

 差引すれば戦争によって得られるメリットよりもデメリットの方が明らかに大きいので、戦争はやっぱり最悪の解決策。孫子も言う通り『戦わずして勝つ』こそが最良の策なのです。

 いま、日本国憲法を改正しようとする勢力が国会で過半数を占めているのが実情ですが『戦争反対、憲法9条護持』を国民は声を大にして叫び、悲惨な戦争を二度と繰り返さないようにしなければなりません。


コリン・ウィルソン音楽を語る(冨山房/1970年9月10日初版/1989年10月14日新装版第1刷)

2017-12-04 08:26:33 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護
 今回の本の紹介はメモ的な記述になることをご了承ください。


※コリン・ウィルソン音楽を語る

 ・・・と、いうのは私には音楽的な素養がナイため、まだちゃんと読みきれてナイのだ(中途半端な状態でスマン)。
 いずれ完読し、理解したあかつきには記事を更新して再アップしますから、今回はコレでお許し戴きたい、と思います。

 作者は『(あの)アウトサイダー』を書いたコリン・ウィルソン、何と(!)独学で知の巨人となった天才です。

 この方が音楽について語る・・・というのでこれは楽しみ・・・なのですが(悲しいかな)この本を読むためには大量のクラシックから現代音楽、果てはジャズまで聴きまくらないと書いてあることが理解できない・・・( ノД`)シクシク…。

 今回は、ねこてんさんのためにマーラーの項を紹介して、お茶を濁しておきます。


※グスタフ・マーラー(1860-1911)

 (ブルックナーと同様に)マーラーも小男であった。しかも、反ユダヤ主義が文化的流行をなしていた時代に、ユダヤ人として生きたのだ。ブルックナーよりずっと異彩を放ち、敏感だった彼にとって、この二重のハンディキャップはたいへんな重荷となり、これが彼に与えた苦痛、彼から奪った精神的エネルギーは多大なものであった。彼の場合も、生まれついての不幸を嘆いて当然だったのだ。彼は十四人家族の一員で、御者から醸造主となった男の息子だった。家族は、しょっちゅう貧困に陥り、ふきんを窓のすきまにつめて、風を防がなければならなかった。彼は、あの輝かしい才能を -おそらくワンマン的気性も含めて- 父から、また感受性を、足の不自由だった母から、それぞれ受け継いでいる。両親は、うまが合わず、父は母をいじめつけた。マーラーがまだ年少のとき、両親は相前後してなくなった。十二人の子供のうち、一人は事故で、五人はジフテリアで、一人は脳腫瘍で死に、一人は自殺した。マーラーは、悲劇的な運命にとりつかれていると感じていたらしいが、合点の行くことである。十一歳のとき、音楽を習うためプラハへ送られたが、一年間ひどい待遇をうけ、とうとう帰郷して、土地のギムナジウムへ通った。のちウィーンに学び、二人の若い音楽家、フーゴー・ヴォルフとハンス・ロットの親友になった。二人とも、やがて発狂して死ぬ。
 (中略)
 アルマ・マーラーによると、あの全く頑固な性分は、父方の祖母ゆずりではないかという。このおばあさんは行商人で、八十歳になっても、相変わらず一軒一軒歩き回っていたらしい。マーラーは、並外れた才能をもちながら、困ったことに、交際能力がほとんどなかった。音楽家たちが彼を激しく嫌ったというのも、彼がかれらとの間に一線を画して、仲間扱いを許さなかったからである。
(後略)

 略歴だけでもこの楽しさ。大量の文献をあたり、それを自分の言葉で語っているこの才能は素晴らしいと思います。

 更にこれが評論になるとプロの音楽評論家もタジタジの文章に・・・。

 マーラーの音楽は、その内容からもブラームスのものに近似しているといえよう。しかしブラームスの主観性と憂鬱感が、古典主義的な枠をはめられているのに反して、マーラーのそれはワーグナー的な増殖力をもって拡がるのだ。


 (いつになるのか)読了後の記事更新を待たれよ!