「高島小学校・学校誌」昭和55年3月発行より転記する。
大正以降、分校の歴史はない。
神武天皇の「吉備の高島宮」の論争時代が、いちばん島も学校も賑やかだった事がうかがえる。
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明治45年度・外神島尋常小学校高島分教場を廃し、高島尋常小学校として独立した。
大正4年度・ご大典記念奉祝式、記念植樹。
大正5年度・麦稈真田をくみ始めた。利益は高島校に寄付した。
大正9年・ラッパ二丁到着。
大正10年度・神武天皇遺跡記念碑建設記念式が行われた。
大正15年度・高島行宮遺跡へ参拝のため犬養木堂先生来島。
昭和9年度・故東郷元帥国葬のため休日。
昭和11年度・電燈が点ぜられた。
昭和11年度・ラジオの設置。
昭和11年度・帝国大学名誉教授黒坂博士、神武天皇聖蹟調査のため来校。
昭和13年度・神武聖蹟調査のため文部省より保安課長外4名来校。
昭和14年度・毎月一日、興亜奉公日と定められた。
昭和14年度・悠久二千六百年の奉祝式を挙行した。
昭和15年度・ご真影を奉戴した。
昭和15年度・二宮金次郎の石像建設、除幕式を挙行した。
昭和16年度・高島尋常小学校を「高島国民学校」と改定した。
昭和19年度・高等科設置。
昭和22年度・学制改革のため国民学校を小学校と改め、高等科1学年を中学校1学年に編入した。
昭和26年度・新校舎上棟式、新校舎落成式。
昭和28年度・学級数をふやすため教室の仕切りをした。(学級編成1年、2・3年、4・5年、6年の4クラス)
昭和31年度・高島公衆電話設置、通話開通。
昭和32年度・テレビ披露式。
昭和37年度・グランドピアノ入荷。
昭和38年度・運動場拡張工事が始まった。
昭和52年度・笠岡市本土より上水道が入る。
昭和53年度・明治乳業牛乳となった(粉ミルク廃止)
昭和54年度・統合問題懇談会(1回~7回)。神島外小学校へ統合が決定。
昭和55年3月31日・笠岡市立高島小学校を閉じる。
(生徒数1年~6年を抜粋すると)
大正時代65名くらい。
昭和一桁、70名くらい。
昭和10年代、72~73名。
昭和20年(最大数となった)104名
昭和20年代80名くらい。
昭和30年代90名前後。
昭和40年代(86名→33名)
昭和50年代(29名→14名)
大正以降、分校の歴史はない。
神武天皇の「吉備の高島宮」の論争時代が、いちばん島も学校も賑やかだった事がうかがえる。
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明治45年度・外神島尋常小学校高島分教場を廃し、高島尋常小学校として独立した。
大正4年度・ご大典記念奉祝式、記念植樹。
大正5年度・麦稈真田をくみ始めた。利益は高島校に寄付した。
大正9年・ラッパ二丁到着。
大正10年度・神武天皇遺跡記念碑建設記念式が行われた。
大正15年度・高島行宮遺跡へ参拝のため犬養木堂先生来島。
昭和9年度・故東郷元帥国葬のため休日。
昭和11年度・電燈が点ぜられた。
昭和11年度・ラジオの設置。
昭和11年度・帝国大学名誉教授黒坂博士、神武天皇聖蹟調査のため来校。
昭和13年度・神武聖蹟調査のため文部省より保安課長外4名来校。
昭和14年度・毎月一日、興亜奉公日と定められた。
昭和14年度・悠久二千六百年の奉祝式を挙行した。
昭和15年度・ご真影を奉戴した。
昭和15年度・二宮金次郎の石像建設、除幕式を挙行した。
昭和16年度・高島尋常小学校を「高島国民学校」と改定した。
昭和19年度・高等科設置。
昭和22年度・学制改革のため国民学校を小学校と改め、高等科1学年を中学校1学年に編入した。
昭和26年度・新校舎上棟式、新校舎落成式。
昭和28年度・学級数をふやすため教室の仕切りをした。(学級編成1年、2・3年、4・5年、6年の4クラス)
昭和31年度・高島公衆電話設置、通話開通。
昭和32年度・テレビ披露式。
昭和37年度・グランドピアノ入荷。
昭和38年度・運動場拡張工事が始まった。
昭和52年度・笠岡市本土より上水道が入る。
昭和53年度・明治乳業牛乳となった(粉ミルク廃止)
昭和54年度・統合問題懇談会(1回~7回)。神島外小学校へ統合が決定。
昭和55年3月31日・笠岡市立高島小学校を閉じる。
(生徒数1年~6年を抜粋すると)
大正時代65名くらい。
昭和一桁、70名くらい。
昭和10年代、72~73名。
昭和20年(最大数となった)104名
昭和20年代80名くらい。
昭和30年代90名前後。
昭和40年代(86名→33名)
昭和50年代(29名→14名)