しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

行商人のこと③行商と露天商 【倉敷市史】

2017年01月24日 | 暮らし
倉敷市史より転記する。

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ヒルカワ

店舗を構えない商業の形態に行商と露天商がある。
一般には小資本が特色である。
広島県の尾道や竹原では「カベリ」と呼ぶが、もとは女性が魚を入れた笊(ざる)を頭上に頂いて訪れたからであろう。
市域では一般に「ヒルカワ」という。
早朝仕入れたものを昼までに売り、容器が乾くから、ともいう。

アセチレンのにおい

露天商は「香具師」の字を当て「ヤシ」とも「コウグシ」とも読ませる。
野武士から「野士」が語源とする。
「テキヤ」とは的屋で、当たればもうかる。
昭和26.27年頃から都道府県単位で「神農商業協同組合」を組織し「一家」は支部となった。岡山県には平成7年現在16の支部がある。16人の親分さんがいることになる。
一家はオヤッサン・オヤジと呼ばれる家長のもとに組織される。
一家の仕事は、庭場内の「タカマチ」(祭礼)の際、出店希望者の割り振りが主なものである。露店は「ネタ」(品物)で分類される。
ミズモン・・アイスクリーム・バクダン・クミスイなど水系統。
ホヤキモン・・焼きイカ・たこ焼きなど食品全般。
モチャ・・玩具。
ワリゴト・・クジモンとも。賭博性のあるもの。
ハボク・・植木など。
モノカネ・・包丁など金物。
あまり見られなくなったものに、
ズマ(手品師)、
ロクマ(易者)、
オガミ(白装束でリングを売る)
などがある。
ヤブはお化け屋敷、ジメは蛇つかいをいうが仕掛けの経費に比して利益が上がらない。
営業の形態としては、
大声で人を集めるバナナの叩き売りのような「タンカバイ」と啖呵のつかない「ミナカシ」に分けられる。
「ナキオトシ」というのは、特殊な商品を売る。

タカマチ
警察への道路許可申請は10日前に、図面を添えて行う。出店を希望する者は親方(帳元・ちょうもと)に申し出る。これを「ネタヅケ」という。
タカマチ(祭礼)の前日、地面に印をつけ位置を確認する。
露天商は場所代(ショバダイ)を帳元に支払う。

近年は祭りも縁日も土曜・日曜日に集中し、露天業者の出店回数は激減した。
またスーパーストアなど、客寄せのために金魚すくい、ヨーヨー釣り、などもとは露店でしか扱わなかった商品を安売りする。
従来の露天商が露店だけで生活するのは難しい世相となった。


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行商人のこと② 【金光町史】

2017年01月24日 | 暮らし
子供の頃は、茂平にも行商人が来ていた。
大風呂敷を背にしたおばさん、天秤棒を担ぐおじさん、という思い出がする。

「金光町史」より転記する。
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明治・大正から昭和の初めごろまでの、農山村の多くは、道も悪くて日用品を買うのにも歩いて一日がかりの仕事になるところもあった。
この不便さを補ってくれたのが行商である。

昆布、わかめ、あらめなどを籠に入れて、頭上に載せ女性が売りにきていた。
「かべり」と呼び、北木島方面から来ていた。

薬売りは、富山、総社から来ていた。四段重ねの籠に薬袋を入れ、大風呂敷に包んで背負って来ていた。
子供への土産として紙風船をくれており、置き薬屋さん、オイッチニの薬屋さんと呼ばれ親しまれていた。

塩売りは、秋の漬物をするころ、黒崎の人が魚籠(びく)に塩を入れ、天秤棒で担いで売りに来ていた。

海苔売りは、毎年4月と10月、島根県や鳥取県から来ていた。
若い女性が絣の着物に手甲、脚絆姿で大風呂敷に海苔を包み背負ってやってきた。

行商のほか、職人もたくさん回ってきた。
鋳掛屋、桶屋、羅宇屋(らうや)、石屋、時計や洋傘の修理屋などが農閑期に家々を回っていた。


仲買い

仲買とは生産者から物品を買い集めて問屋などへ出荷することを仕事としており、仲買人とか仲買商と呼んでいた。
金光町内では、麦稈真田をはじめ、米、繭、牛、卵、庭木、豚、桃、葡萄、柿、木材など町内で生産するものの仲買をしていた。
昭和22年ごろからカナリヤの飼育がはじまり、最盛期の35年頃には70軒の人が飼育していた。カナリヤ出荷組合もでき、50羽ずつ出荷箱に入れ、金光駅から横浜の集荷所まで送り、アメリカへ輸出していた。


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