しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

福山駅前の信号機【昭和36年】

2017年01月16日 | 初めてのこと
子供の頃、町といえば「笠岡」または「福山」を指した。
町が大きいので福山に行く方が多かった。

ある年の事、駅前の道を渡ろうとしたら「信号機」が付いていた。

信号機の事は知識としては知っていたが、見るのは初めてだった。
赤・青・黄の3色で、青なら渡れることも勉強して知っていた。

ところが、実際に信号機を前にしたら前に行っていいのか、だめなのかわからない。
というのは、例えば(当たり前のことだが)前を見れば赤、横を目れば青。
そのことが管理人にとって、二重信号に見えてしまった。汗・汗・汗。。。。。の状態となった。

思案に暮れて、結局は多数の人の後ろをついて渡った。
次にその信号を渡ろうとしたときは信号の見方が理解できてすんなりと渡れた(これも当然のことではある)。

福山駅前の信号機は昭和36年に付いたそうだ。忘れられない冷や汗だった。

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ついでに福山駅舎の喫茶店でのこと。

小学校の3年か4年の頃、祖父と福山に行った時、福山駅構内で祖父の知人に会った。
知人の方が駅舎にある喫茶店に入り、コーヒーを注文してくれた。
管理人はコーヒーを飲んだことがなく、しかも
店の中で、テーブルのうえに、皿にカップとサジがあった。
どうやって飲めばいいのか、さっぱりわからなかった。
ここでも汗・汗・汗。。。。
結局サジでコーヒーをすくい、音を出しながら飲んだような記憶がある。
今思い出しても、汗がでる。

駅舎の喫茶店は福山城の天守閣が建つ頃、撤去されたような気がする。
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「大津野のあゆみ」から城見村関連を抜粋する

2017年01月16日 | 江戸~明治
隣村である、広島県深安郡大津野村(現・福山市大門町)の郷土史本から
城見村に関連する事項を抜粋する。

大門町誌編集委員会「大門町誌 大津野のあゆみ」より転記。

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M17・8月大津波のため堤防破壊する。
M24・山陽鉄道笠岡~福山間開通。
M24・大津野村に4店の真田問屋が開業する。
M30・大門駅落成開業。
M39・城見村茂平に吉備製陶合資会社が発足。初代水川豊太郎。
M41・大津野村立大津野尋常高等学校と改称。歩兵41連隊が広島から福山へ転営。
M44・第一次塩田整理で、大津野塩田が全て廃業となる。

T9・旧国道2号線が大門を貫通する。以前は日和峠~横道~七隠れが本村の一等道。
T11・村内に電灯がともる。灯数500.
T11・村内の牛数123、豚27、鶏413。養蚕戸数50.
T12・山陽本線の複線化が広島まで開通。
T15・小学校に青年訓練所を創立。

S6・満州事変、この頃より大門駅より多くの若者たちが出征して行くようになる。
S10・青年学校創立。
S10・大津野小学校木造二階建て完成。女子青年団は、真田での収益金を寄付。
S11・忠魂碑が小学校の校庭に出来る。
S12・日華事変起こる。8/27大津野村に70名の召集令状くる。この頃より村出身者戦死の報が届くようになる。
S12・大津野村出征軍人家庭後援会創立。
S12・大日本国防婦人会大津野村分会創立。
S12・小学校に二宮金次郎の像できる。
S15・紀元2600年式典、加茂神社に碑建立。
S16・牛の首に海軍水上機乗員養成所ができる。
S20・4/18福山で初の空襲警戒警報。以後終戦まで93回、空襲警報28回。
S20・6月より米軍機グラマンの大津野航空隊襲撃が頻繁に始まる。
S20・7/2米軍機が大津野飛行場へ20機、30機と4度来襲。
S20・8/15正午、天皇陛下のラジオ放送により終戦。戦死者172名。村人航空隊の物資を山に隠す。
S20・11/2米軍福山に進駐、旧海軍宿舎が兵舎となる。約1.000名。

S21・3/23米軍に替わりオーストラリア軍400名進駐。
S23・神辺高校大津野分校設置。
S24・春日村、坪生村、引野村、大津野村の4ケ村組合立培遠中学校大津野分校発足。
S27・大津野小学校の校庭に「慰霊塔」建立。
S27・航空隊跡地へ保安部隊病院。
S29・培遠中学より独立して大津野村立大津野中学校設立。
S31・3月大門駅地下道完成。
S34・新国道2号線が大門駅南側へ着工する。
S35・貨物の取り扱い廃止となる。
S36・日本鋼管の福山進出決定。福山駅前に信号機が付く。松永塩田廃止。岡山~三原間電化開通。
S37・新国道2号線開通。農耕牛が姿を消す。
S38・大門駅前舗装工事完成。備後工業整備特別地区に指定される。
S41・福山製鉄所第一高炉火入れ。鳳中学校開校、大津野中廃校。広大水産・教育が東広島へ移転。
S42.・神辺高校大津野分校廃止。
S50・大門高校新設開校。福山大学開校。
S54・野々浜小学校新設。
S55・大門中学、福山女子高が開校。
S58・シャープ福山進出内定。


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昭和18・19年頃の岡山市民の生活

2017年01月16日 | 昭和16年~19年
「岡山市史 戦災復興編」から転記する。

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戦時中の岡山市民の暮らし
一・県の調査
昭和18年9月頃、企画院(昭和12年新設)から県民の生活などについて照査した。

食生活
憂いべく現象は、幼児・児童にして弁当を持参し得ざる者あり、甚だしきは他の者の弁当を盗み食いするものもままある。
衣生活
乳幼児の綿物の増配と農業者に対する衣料の質の向上を計る要あり。
住生活
保健的見地より改善指導すべき点多々あり。

二・市民生活
必要数が配給されず、必然的に闇取引が盛になった。
服装
戦時装服が強化されて男子は国民服にゲートル巻、女子は筒袖にモンペをはく軽装に統一された。
食物
麦混食など奨励していたが、それでも不足するので玄米食を奨励した。
代替主食
従来、米の不足を補うため、麦、麺類、小麦粉、パン、芋等を統合配給していたが、19年4月から加工大豆を配合することになった。
どんつく
メリケン粉に米糠、野草を混ぜて焼く
国民食堂
岡山市内に60ヶ所。一回の食事代は50銭、1円の2種。
電気
18年12月より一般電燈は制限強化。
映画館
1週1日の休日制をとる。
日曜・祭日の1日4回上映は3回にする。
10時閉店
定刻10時よりも幾分早く午後9時頃よりぼちぼち戸を閉めるかけ、10時には燈のない商店街を実現した。天満屋のエレベーター3台のうち、2台を金属供出した。
一戸一灯を厳守
大政翼賛会や合同新聞が「1戸1灯を厳守、電力を戦力へ活かそう」と呼びかけた。
ニュースが聞けない
点灯時間を引き締めたため、生活上いろいろ不便が来たし、何とか方法はつかぬかと民間から声が聞こえ始めた。

その他
旅行禁制
決戦に、暮も正月もない「止めてください勝つ日まで」
乗合馬車
19年10月市内に15人乗り乗り合い馬車が颯爽と登場した。区間は瓦町電車終点から福島バスの終点まで6キロ。現在バスが運行していると同じ、大雲寺町福島線の人絹道路を並木に沿うて走り、料金は40銭。
墓石も中止
19年6月石材工業者、庭師、植木師の決戦措置が岡山県で決まった。1年間休止する。県貨物、陸上小運搬組合、機帆船などでも1年間取り扱わぬこととした。

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