しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学①興譲館の場合

2017年01月23日 | 昭和21年~25年
「男女七歳にして席を同じうせず」制は終戦まで生き延びた。
管理人が高校生の頃でも、男女の交際は控えるような雰囲気だった。
当時見た青春映画には、必ずのように男女交際反対の先生がいた。

「興譲館百二十年史」より転記する

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学制改革により男女共学

昭和24年、学制に大変革が行われ本校もそれに従い六三制を実施し高等学校と中学の一貫教育を行うことにしたが、特に世間から危惧の目を持って見られたのが、男女共学であった。
本校は元来、女生徒は在学しなかったので、男性ばかりの学校に、女生徒が応募する筈がないという通念であった。
処が、中学に女生徒がかなり入学してきたのである。しかも成績が良いのが入ってきた。
2.3年後には公立中学の方から陳情が来た。
願わくば、中学の募集を中止してくれないかという訳である。
若し、之を強行すれば、高等学校の方へ、公立中学からの応募者が減少するかも知れない。以後今日迄、廃止して来ている。



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赤線の女

2017年01月23日 | 昭和31年~35年
昭和49年、初めて日比の旧遊郭街を見た時の驚きは忘れられない。
日比の元遊郭街は、ほぼ完璧に現存していた。
その古い町並みの哀愁は、とても倉敷美観地区に比較にならなかった。

その元遊郭の一室に1年半ほど暮らした。
隣家は日比遊郭でも一番の規模で、当時は旅館業だった。
その女将さんとも、ご主人とも酒を酌み交わしたが・・・郭のこと、
男と女、遊び、お金、暮らし、・・・お女郎さんのこと、
その事を一度も話題にしなかったことが、今になっては残念だ。


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「岡山・玉野の100年」より転記する。

日比港は中世以来、海上交通と物資輸送の拠点として繁栄してきた。
しかし、宇野港が完成すると港としての地位は次第に衰えた。
遊郭は明治10年に設置が認められ、新地という。


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「福山市史Ⅳ」より転記する。

赤線よサヨウナラ、3月1日福山では解散式

赤線業者の転廃業(昭和33年・備南合同新聞)

転廃業の準備なった福山新地組合(業主38名、従業員108名)では、盛大に解散式を行う。
この日は徳永福山市長を始め、警察署長、防犯係長が出席し、組合から108名の業婦一人一人に対して千円乃至二千円の厚生資金が贈られ、また業者からも餞別が渡されることになっている。
3月中旬にはそれぞれの業者が次のような新しい職業に入ることになっている。

▽旅館20
▽バー5
▽スタンド3
▽料理1
▽小料理2
▽廃業5
他に間借り、商業、喫茶、飲食店。

業婦の方は、108名のうち
▽家に帰る54
▽落ちつく26
▽他の職を求める28
▽帰るところがない9
▽結婚17
▽内縁妻11
▽就職決定14
▽結婚できる5
となっている。

なお、鞆町の5業種12業婦では一軒が転業する以外は全部廃業し、業婦の方は1名が芸者、1名が就職し他は帰郷することになっている。


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