母は井原女学校を卒業後、“技芸”に通っていたそうだ。
年数ははっきり覚えていないが、2年間程度だったような気がする。
母によれば、その頃はどこの町にも“技芸”と呼ばれる学校が多かったそうだ。
管理人が青年時代に、どこの町にも「ドレスメーカー女学院」とか「文化服装学院」があったが、それと似たような存在でなかったかと思う。
以下「井原市史Ⅱ」より転記する。
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大正15年、井原町助役のS氏の首唱のもとに創立された井原技芸高等学校は、昭和4年茂原茂を迎えた。茂原は郷党の意気に感じ長崎高商校長の職を退き、井原高等女学校に赴任した。
県立移管後に退職し、技芸学校校長となった。各教諭に専門家を網羅し、各生徒の個性に応じ親しみのある指導をしており、学校は内容、外観ともに立派となり保護者から称賛された。
年数ははっきり覚えていないが、2年間程度だったような気がする。
母によれば、その頃はどこの町にも“技芸”と呼ばれる学校が多かったそうだ。
管理人が青年時代に、どこの町にも「ドレスメーカー女学院」とか「文化服装学院」があったが、それと似たような存在でなかったかと思う。
以下「井原市史Ⅱ」より転記する。
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大正15年、井原町助役のS氏の首唱のもとに創立された井原技芸高等学校は、昭和4年茂原茂を迎えた。茂原は郷党の意気に感じ長崎高商校長の職を退き、井原高等女学校に赴任した。
県立移管後に退職し、技芸学校校長となった。各教諭に専門家を網羅し、各生徒の個性に応じ親しみのある指導をしており、学校は内容、外観ともに立派となり保護者から称賛された。