しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

井原技芸高等女学校

2017年01月14日 | 昭和11年~15年
母は井原女学校を卒業後、“技芸”に通っていたそうだ。
年数ははっきり覚えていないが、2年間程度だったような気がする。
母によれば、その頃はどこの町にも“技芸”と呼ばれる学校が多かったそうだ。
管理人が青年時代に、どこの町にも「ドレスメーカー女学院」とか「文化服装学院」があったが、それと似たような存在でなかったかと思う。

以下「井原市史Ⅱ」より転記する。

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大正15年、井原町助役のS氏の首唱のもとに創立された井原技芸高等学校は、昭和4年茂原茂を迎えた。茂原は郷党の意気に感じ長崎高商校長の職を退き、井原高等女学校に赴任した。
県立移管後に退職し、技芸学校校長となった。各教諭に専門家を網羅し、各生徒の個性に応じ親しみのある指導をしており、学校は内容、外観ともに立派となり保護者から称賛された。

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戦時の女学生 「井原高校80周年誌」

2017年01月14日 | 昭和16年~19年
岡山県立井原高校80年「八十周年誌」より転記する。

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昭和19年7月高等女学校3年生は鉢巻をしめ防空帽をかぶり、胸に住所氏名と血液型を書いた布を縫い付けたモンペ服の上下に救急袋をさげたいで立ちで、市域の軍需工場へ工場動員された。
高屋織物では戦地へ送る蚊帳を織り、中国織物、井原興業の被覆部・織布部や三和被服・井原精螺の各工場へ配属された生徒は、納期が迫ると残業して、軍服や戦闘帽の手直しをして、針を持つ手に血がにじむほどの苦労を重ねた。
5年生は翌20年4月学徒動員として倉敷の万寿航空機製作所へ出かけ、ハンマー・鋲打などの訓練を受けて、やがて爆撃機の翼の組み立てに配属され、手に血豆をつくりながら頑張り、まもなく三交替制の厳しい労働を強いられていった。




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「山陽駅伝」は城見小学校の前を走る

2017年01月14日 | 昭和31年~35年
城見小学校に在学中の時、
学校の前の国道2号線を、毎年駅伝競走のランナーが走っていた。

駅伝の選手が学校の前を走る時は、授業を止めて全校生徒が選手を応援していた。
授業が中断されるので楽しみで、その日を待っていた。
当時の国道2号線はのどかだった。
車と言えば、バスやトラックが日に何台か通るだけ。
お医者さんが午後から往診にスクーターで通ったり、馬が荷物を引いていた。
道路はもちろん未舗装。
日本の道路は舗装率3%、アメリカは舗装率97%と勉強していた。


(「写真アルバム・福山市の昭和」より借用。
(写真は新国道を走っている、大会の最終回頃。)


駅伝の名称は「山陽駅伝」、下関をスタートして神戸がゴール。
今でいう、実業団駅伝だった。
大門方面から来て笠岡方面へ走っていた。
たぶん読売新聞が主催だったような記憶があり、その社旗を振って応援していた。
出場チームは各県対抗で全都道府県が出場する大きな大会。新聞のスポーツ欄に前日の記録や順位が載るので、城見小の前を走る日はだいたい分かっていた。

当日は学校の前に、1~6年生が小旗をもって道の左右に並んで選手が来るのを待っていた。
トップからドベまでは時間差があるので、岡山県の選手が走り去ったら学校に戻っていたような気がする。

自家用車が普及しだす頃、当然のことのように国道2号線を走る山陽駅伝は消えていった。
その頃、子供の噂話では
運動が得意な人は「盈進」から声が掛かり、特待生で入れる。
マラソンが得意な人は「興譲館」から声が掛かり、特待生で入れると言われたが、なんとなく実話と思っていた。
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