今の国道2号線で、岡山~倉敷~福山間はかつて「浜街道」とか「鴨方往来」と呼ばれ、矢掛や神辺を通る山陽道の格下だった。
しかも、荷車さえ通ることができない道幅で、(大門~用之江間)大正4年にやっと車馬が通れる道となった。
大正9年河口池南側を通る新道ができて一等道からの役目を終えた。
街道沿いの婦人から聞いた。2017.1.25
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萱の陰に隠れて、おいはぎや、どろぼうが出ていたそうです。
六部の人のが行き倒れて、その大きな墓もあります。
この上の方に明智山城の跡があります。今は荒れてますが、ひらべったくなり
壺や屋根の欠片が出てきたそうです。
主人のお父さんは、陸軍の野砲が通りょうたのを何度もようりました。
主人が言うのは、その頃の道は、道から左右にはみ出しても問題ないから通りょお。
藁を積んだ荷車が通ったり、人がにぎやかに通っていたようです。
わたしんちは、屋号を「おうかん屋」といいます。
そういう意味がじゃあないんかなあと思います。
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参考①福山市引野町史
大正4年には、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。
車馬の通れる幅に拡張されてた。
大正8年「道路法」が制定された。
これに伴い福山より引野、大門を経て笠岡に通じる道が県道に認定された。
昭和4年、第二国道に昇格した。これによって従来の県道尾道・井原線となった。
参考②「大津野のあゆみ」
大正9年、旧国道2号線が大門を貫通する。
以前は日和峠~横道~七隠が本村の一等道。
しかも、荷車さえ通ることができない道幅で、(大門~用之江間)大正4年にやっと車馬が通れる道となった。
大正9年河口池南側を通る新道ができて一等道からの役目を終えた。
街道沿いの婦人から聞いた。2017.1.25
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萱の陰に隠れて、おいはぎや、どろぼうが出ていたそうです。
六部の人のが行き倒れて、その大きな墓もあります。
この上の方に明智山城の跡があります。今は荒れてますが、ひらべったくなり
壺や屋根の欠片が出てきたそうです。
主人のお父さんは、陸軍の野砲が通りょうたのを何度もようりました。
主人が言うのは、その頃の道は、道から左右にはみ出しても問題ないから通りょお。
藁を積んだ荷車が通ったり、人がにぎやかに通っていたようです。
わたしんちは、屋号を「おうかん屋」といいます。
そういう意味がじゃあないんかなあと思います。
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参考①福山市引野町史
大正4年には、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。
車馬の通れる幅に拡張されてた。
大正8年「道路法」が制定された。
これに伴い福山より引野、大門を経て笠岡に通じる道が県道に認定された。
昭和4年、第二国道に昇格した。これによって従来の県道尾道・井原線となった。
参考②「大津野のあゆみ」
大正9年、旧国道2号線が大門を貫通する。
以前は日和峠~横道~七隠が本村の一等道。