しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徐福 

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・和歌山県新宮市




不老不死の仙薬。---
始皇帝はますますそれに強くあこがれるようになった。
徐福の上書に許可を与え、巨額の費用を出したのは、28年のことであった。
同じ年に仙人さがしを命じている。
だが3年たっても、仙人も仙薬もみつからない。







始皇帝の行列は,会稽から呉にむかい、長江を渡り、山東半島半島南部を目指して進んだ。
徐福に命じておいた不老不死の仙薬について、詰問し、催促することにあった。
曲者の徐福、
もちろん予想される詰問に対する返答を用意していた。

第一は、暴風。
風波に負けぬ巨船が必要とするので、そのため歳月を要した。


この徐福はえらい人物である。
六国を滅ぼして天下を統一した始皇帝を、仙人だの仙薬をさがすだのといって、だまくらかして、財物をまきあげた。
凡庸な人間にできることではない。



・・・






和歌山県の新宮市と熊野市に、それぞれ徐福の墓がある。
童男、童女をのせた彼の船隊が、熊野灘沿岸に着いたと言われている。

「小説 十八史略」 陳舜臣 毎日新聞社  昭和52年発行








撮影日・2013年6月5日


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天草四郎

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・長崎県島原市  島原城





「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

島原の役

寛永11年から3年間、九州の涯、島原領と天草領では凶作がつづき、飢饉がおこった。
14年の春からは餓死する者がふえた。
麦も出来ず、夏は、旱魃で田は地割れし、苗一本育たない。
盗賊が横行して人心が動揺し、不安は高まった。
不安に流言はつきものだ。流言は流言を生み、人々の恐怖をさらに煽った。

将軍家光の病状も入っている。
実は死亡したのではないかという風説がたった。
家光の不例を背景にして、紀州さまが謀反をおこされるの、牢人衆が一揆をおこすのという評判が伝わった。

九州ではさらに不思議な天然現象がおこった。
秋に入ったというのに、まるで春の花が狂い咲いた。

この地方は、旧領主有馬氏以来、切支丹信仰が民衆の間にしみこんでいる。
次の利用主松倉重政は、過酷な民政をしいた。
今こそわれらは伴天連を信じて、年来われらを苦しめてきた松倉重政と天草島を支配する寺沢家に対して一揆をおこすときだ、と、圧政に苦しむ百姓たちが立ちあがったのが、
そもそも島原役のはじまりだ。

この一揆の総大将として、みなから擁立されたのが、島原領大矢野村の庄屋益田甚兵衛の一子、四郎時貞という美少年だった。









原城

島原の乱、原城跡は、いまはもう一面芋畑です。
丘があり、ちょっとした石垣が残っています。

オランダは、ちょうど平戸に二艘あり、一艘は大急ぎで南へ領海を離れる。
幕府の命令で一艘は砲撃にあたる。いやいやながらでしょう。

「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行









天草役は幕府に種々の教訓を得させた。
原城の指揮をとったのも牢人なら、包囲軍のなかでも牢人たちがここぞ出世の機会とばかりに、奮戦している。
大坂の役後、諸大名の改易によって失業した浪人群の脅威を目の当たりに見た幕府は、これ以後浪人取り締まりを厳重にするようになった。

幕府はその実力低下を満天下にさらした。
また、それに劣らず、諸大名の武力低下も暴露された。

世はいよいよ泰平となり、のち幕末の自己崩壊を迎えるのである。





撮影日・2012年5月8日


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伊藤大孝~ビルマ戦線~

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市神島


氏は長く岡山県議を務め、また日本遺族会の役職をされた。
笠岡市名誉市民。




「人生不屈」  伊藤大孝  昭和61年発行


ビルマ戦線

ペグー山系

師団は6月16日転進を開始した。
ペグー山系は標高300m、山幅60km内外の竹林を主とする人煙まれな山なみである。
この山中に糧秣を求めることは至難であった。
そのため、パウカン平地では敵と戦いながら、籾集めに命をかけて行動した。
ペグー山系突破の日数は約1ヶ月と予定されたが、
各自40日分の食糧の携行を命ぜられた。
芋・もみがらをとってきてドンゴロスや一斗缶に入れるのであるが、
兵器弾薬のほか、このカンを背負えないものは餓死するといわれた。

それからが過酷な行軍であった。
竹林の中、チークの大木で、昼間も薄暗い気持ち悪さ。
道もなく、連日の雨で一面泥濘。
数々の激戦で将兵の被服や靴はぼろぼろ、大半がハダシとなった。
小石と砂利の山道を切り開いて進んでいく。

山中では、草の根を掘り、毒のありなしを調べたり、夜はタケノコを焼いて食べた。
疲れ果てた体を笹で覆い、どしゃ降りの中をうたた寝した。
コレラ、デング熱が流行し、戦友の命を次々と奪い去った。
100m行くごとに1人か2人が死んでいった。

苦難を乗り越え、6月30日、ペグー山中コピューテに出征以来はじめて聯隊のみんなが一ヶ所に集結した。
だが、生存者1.000名、悲しいかな、人員損耗率73.6%だった。





はだしで六百里

ジャングルの中を通った。
雨季のビルマは雨また雨である。
われわれはただ歩いた。
”日本へ帰りたい。
もう一度この足で祖国の土を踏みしめたい!”
ただもうこの一点であった。

食べものはもちろん、着るものも足にはくものもなくなった。
裸足になって、太陽の昇る方向へ向かって、東へ、東ヘと、一足でも祖国日本へ近づこうと、六百里歩いた。
ぼろ布をまとい、食べ物は夜、民家の籾や鶏を盗んだりしてあらゆるのを食べた。
私はどれだけ多くの戦友たちの最後を見届けたことであろうか。
しかしながら、その戦友たちを手厚く葬る余裕すらなかった。

8月27日、南ビルマのミンランタゼイクの山の中に到着した。
ここで聯隊は師団の将校から終戦(8月15日)に関する大詔、および各殿にわたる処置命令を受領した。
聯隊長は将校全員を集め、涙をのんで軍旗奉焼式を行った。
聯隊は9月5日、現地英軍によって武装を解除され、収容所に入った。


収容所では自活自存のために食糧供給の代償として、連合軍の要求する労務に従事することになった。
22年5月末、祖国へ帰る復員船が来た。
6月10日、日本丸に乗船し、6月29日宇品港に着いた。
似島検疫所で検疫などをすまし、7月1日宇品に上陸した。
翌7月2日歩兵第154聯隊は解散。
私たちは戦死した英霊を追悼しその遺徳を顕彰して、日本復興に挺身することを誓い合った。







撮影日・2008年12月7日



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大国主命と因幡の白うさぎ像

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・鳥取県鳥取市白兎  道の駅「神話の国白うさぎ」






鳥取市の西のはずれ、
白兎海岸はその名のとおり、神話「因幡の白兎」の伝承地である。
波静かな砂浜が無垢の美しさでひろがり、海を見わたせば、兎の住んでいたという淤岐ノ島が兎の形で浮かび、
そこからワニの背を思わせる岩礁が波間に見え隠れに陸地の気多崎へと通じている。

いまの子どもたちはもうユーモラスな兎とワニの物語も、「大こくさま」の唱歌も知らないという。
その歌曲碑が潮風に吹かれて浜辺に立っている。

「歴史と旅」  昭和57年2月号  秋田書店









撮影日・2020年10月14日   




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山岡鉄舟

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・岐阜県高山市







「日本剣豪100選」 綿谷雪著 秋田書店 昭和46年発行  

山岡鉄舟高歩


山岡鉄舟は天保7年、本所大川端通いに六百国の旗本の五男として生まれた。
通称鉄太郎、後に鉄舟と号した。
鉄太郎11歳の弘化2年に父が高山代官所に赴任したので高山に行き、17歳までそこに過ごした。
20歳の時、山岡静山の門に入り槍術を学び技術・思想の上で大きな感化を受けたが、いくばくもなく静山は死去し、
望まれてその長女英子の婿として山岡家に入った、
英子15歳、鉄太郎20歳であった。

明治元年、西郷隆盛と会見して江戸を焦土から救った。
江戸開城後は、徳川慶喜にしたがって駿府に移り民政をつかさどった。
後に明治新政府に出仕した。子爵に叙せられた。
明治21年、53歳にて死去した。













撮影日・2016年2月3日







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