東京都千代田区九段北 靖国神社
制作・大熊氏広
設置・明治26年(1893)
大村益次郎
攘夷派に襲われて46歳でこの世を去った。
大村は、靖国神社の前身東京招魂社の設置に強く関わっていたことから、
大村の教え子らによって銅像建立が計画された。
工部美術学校出身の彫刻家大熊氏廣が制作を依頼され、
大熊自ら指揮を執って東京砲兵工廠で鋳造されたものである。
銅像の高さは3m、台座は13mもある。
実在の人物では最も古い像である。
本像は、日本人の手になる本格的な西洋彫刻の劈頭を飾る、
文字通り記念碑的な作品として美術史的に大きな意義を持っている。
しかも、
当時公園的な性格が強かった靖国神社外苑という設置場所から見ても、
本格的近代銅像として成功した最初期の作例ということができる。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
大村益次郎
文政2年(1819)~明治2年(1869)
周防の生まれ。
緒方洪庵の適塾で洋学を学び、兵書の翻訳や軍艦製造に従事。
元治2年(1865)萩藩の軍制改革のリーダーとなる。
戊辰戦争では全作戦を指揮、上野の彰義隊を一日で討伐した。
明治新政府では軍事の全権を掌握。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
大村益次郎と細菌学
明治2年9月4日、京都木屋町の旅館で、兵部大輔・大村益次郎は刺客に襲われた。
大村は刀をとるひまもなく眉間と左の指の関節を斬られ、右膝をざくりとやられた。
危うく難を逃れた大村は、湯殿に入って流れる血を洗い、
自分の専門である医師としての応急処置を施し、刺客が去ってから無事な姿を見せた。
大村は二か月後にその傷がもとで死んだが、負血症に罹った原因は垢に汚れた湯に漬かっていたためのような気がしてならない。
コッホが破傷風菌を発見したのはそれから9年後。
大村にさえまだ細菌学の知識はなかったわけである。
「歴史と人生と」 綱淵謙錠 中公文庫 昭和55年発行
「広瀬中佐の銅像」 もりたなるお 新人物往来社 2002年発行
戦犯美術
昭和31年7月に、経済企画庁は”もはや戦後ではない”と結語に記した。
新聞記者奈川は、戦犯銅像の取材を担当することになった。
「銅像にまで戦争犯罪が及ぶのですねかね」
「戦争意識を煽ったもののようです」
調査部の部屋に、戦犯銅像の資料があるか聞いた。
切り抜きのスクラップ帖があった。
昭和22年2月30日の日付スタンプあった。
大村益次郎のカット写真がついた記事だった。
”「軍服銅像」いよいよ追放--残るか「大村益次郎」”
という見出しがついている。
「かつての超国家主義や軍国主義を国民にふきこんだ銅像や記念碑、忠魂碑などの撤去の基準を決める
『忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会』は、2月28日顔ぶれを決定。
3月早々に審査に取り掛かるが、各所の忠魂碑など既に取りはずしがはじまったものもある。
都内の銅像、記念碑等は戦時中200余とおしえられ、そのうち軍服姿のいかめしいのが4、50、
それらはただ侵略主義、軍国主義の宣伝に一役買っただけで美術的に価値はないものが多い。
芸術的価値のあるものは、戦時中に軍需物資として供出し、溶鉱炉に投げ込まれてしまった。
残っているのは軍事色の強いものばかりであった。
ほとんどが追放されるものと考えられる。
さて、それらの銅像であるが、
皇居前の”楠木正成”、靖国神社の”大村益次郎”、須田町の”広瀬中佐、杉野兵曹長”をはじめてとして云々」
撮影日・2011年9月9日
制作・大熊氏広
設置・明治26年(1893)
大村益次郎
攘夷派に襲われて46歳でこの世を去った。
大村は、靖国神社の前身東京招魂社の設置に強く関わっていたことから、
大村の教え子らによって銅像建立が計画された。
工部美術学校出身の彫刻家大熊氏廣が制作を依頼され、
大熊自ら指揮を執って東京砲兵工廠で鋳造されたものである。
銅像の高さは3m、台座は13mもある。
実在の人物では最も古い像である。
本像は、日本人の手になる本格的な西洋彫刻の劈頭を飾る、
文字通り記念碑的な作品として美術史的に大きな意義を持っている。
しかも、
当時公園的な性格が強かった靖国神社外苑という設置場所から見ても、
本格的近代銅像として成功した最初期の作例ということができる。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
大村益次郎
文政2年(1819)~明治2年(1869)
周防の生まれ。
緒方洪庵の適塾で洋学を学び、兵書の翻訳や軍艦製造に従事。
元治2年(1865)萩藩の軍制改革のリーダーとなる。
戊辰戦争では全作戦を指揮、上野の彰義隊を一日で討伐した。
明治新政府では軍事の全権を掌握。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
大村益次郎と細菌学
明治2年9月4日、京都木屋町の旅館で、兵部大輔・大村益次郎は刺客に襲われた。
大村は刀をとるひまもなく眉間と左の指の関節を斬られ、右膝をざくりとやられた。
危うく難を逃れた大村は、湯殿に入って流れる血を洗い、
自分の専門である医師としての応急処置を施し、刺客が去ってから無事な姿を見せた。
大村は二か月後にその傷がもとで死んだが、負血症に罹った原因は垢に汚れた湯に漬かっていたためのような気がしてならない。
コッホが破傷風菌を発見したのはそれから9年後。
大村にさえまだ細菌学の知識はなかったわけである。
「歴史と人生と」 綱淵謙錠 中公文庫 昭和55年発行
「広瀬中佐の銅像」 もりたなるお 新人物往来社 2002年発行
戦犯美術
昭和31年7月に、経済企画庁は”もはや戦後ではない”と結語に記した。
新聞記者奈川は、戦犯銅像の取材を担当することになった。
「銅像にまで戦争犯罪が及ぶのですねかね」
「戦争意識を煽ったもののようです」
調査部の部屋に、戦犯銅像の資料があるか聞いた。
切り抜きのスクラップ帖があった。
昭和22年2月30日の日付スタンプあった。
大村益次郎のカット写真がついた記事だった。
”「軍服銅像」いよいよ追放--残るか「大村益次郎」”
という見出しがついている。
「かつての超国家主義や軍国主義を国民にふきこんだ銅像や記念碑、忠魂碑などの撤去の基準を決める
『忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会』は、2月28日顔ぶれを決定。
3月早々に審査に取り掛かるが、各所の忠魂碑など既に取りはずしがはじまったものもある。
都内の銅像、記念碑等は戦時中200余とおしえられ、そのうち軍服姿のいかめしいのが4、50、
それらはただ侵略主義、軍国主義の宣伝に一役買っただけで美術的に価値はないものが多い。
芸術的価値のあるものは、戦時中に軍需物資として供出し、溶鉱炉に投げ込まれてしまった。
残っているのは軍事色の強いものばかりであった。
ほとんどが追放されるものと考えられる。
さて、それらの銅像であるが、
皇居前の”楠木正成”、靖国神社の”大村益次郎”、須田町の”広瀬中佐、杉野兵曹長”をはじめてとして云々」
撮影日・2011年9月9日