しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大村益次郎

2021年04月18日 | 銅像の人
東京都千代田区九段北 靖国神社
制作・大熊氏広
設置・明治26年(1893)


大村益次郎

攘夷派に襲われて46歳でこの世を去った。
大村は、靖国神社の前身東京招魂社の設置に強く関わっていたことから、
大村の教え子らによって銅像建立が計画された。
工部美術学校出身の彫刻家大熊氏廣が制作を依頼され、
大熊自ら指揮を執って東京砲兵工廠で鋳造されたものである。

銅像の高さは3m、台座は13mもある。
実在の人物では最も古い像である。

本像は、日本人の手になる本格的な西洋彫刻の劈頭を飾る、
文字通り記念碑的な作品として美術史的に大きな意義を持っている。
しかも、
当時公園的な性格が強かった靖国神社外苑という設置場所から見ても、
本格的近代銅像として成功した最初期の作例ということができる。


「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






大村益次郎

文政2年(1819)~明治2年(1869)
周防の生まれ。
緒方洪庵の適塾で洋学を学び、兵書の翻訳や軍艦製造に従事。
元治2年(1865)萩藩の軍制改革のリーダーとなる。
戊辰戦争では全作戦を指揮、上野の彰義隊を一日で討伐した。
明治新政府では軍事の全権を掌握。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行







大村益次郎と細菌学

明治2年9月4日、京都木屋町の旅館で、兵部大輔・大村益次郎は刺客に襲われた。
大村は刀をとるひまもなく眉間と左の指の関節を斬られ、右膝をざくりとやられた。
危うく難を逃れた大村は、湯殿に入って流れる血を洗い、
自分の専門である医師としての応急処置を施し、刺客が去ってから無事な姿を見せた。

大村は二か月後にその傷がもとで死んだが、負血症に罹った原因は垢に汚れた湯に漬かっていたためのような気がしてならない。
コッホが破傷風菌を発見したのはそれから9年後。
大村にさえまだ細菌学の知識はなかったわけである。

「歴史と人生と」 綱淵謙錠  中公文庫  昭和55年発行









「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行


戦犯美術

昭和31年7月に、経済企画庁は”もはや戦後ではない”と結語に記した。

新聞記者奈川は、戦犯銅像の取材を担当することになった。


「銅像にまで戦争犯罪が及ぶのですねかね」
「戦争意識を煽ったもののようです」

調査部の部屋に、戦犯銅像の資料があるか聞いた。
切り抜きのスクラップ帖があった。
昭和22年2月30日の日付スタンプあった。
大村益次郎のカット写真がついた記事だった。
”「軍服銅像」いよいよ追放--残るか「大村益次郎」”
という見出しがついている。


「かつての超国家主義や軍国主義を国民にふきこんだ銅像や記念碑、忠魂碑などの撤去の基準を決める

『忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会』は、2月28日顔ぶれを決定。
3月早々に審査に取り掛かるが、各所の忠魂碑など既に取りはずしがはじまったものもある。
都内の銅像、記念碑等は戦時中200余とおしえられ、そのうち軍服姿のいかめしいのが4、50、
それらはただ侵略主義、軍国主義の宣伝に一役買っただけで美術的に価値はないものが多い。

芸術的価値のあるものは、戦時中に軍需物資として供出し、溶鉱炉に投げ込まれてしまった。
残っているのは軍事色の強いものばかりであった。
ほとんどが追放されるものと考えられる。
さて、それらの銅像であるが、
皇居前の”楠木正成”、靖国神社の”大村益次郎”、須田町の”広瀬中佐、杉野兵曹長”をはじめてとして云々」










撮影日・2011年9月9日





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小川郷太郎

2021年04月18日 | 銅像の人
場所・岡山県浅口郡里庄町  里庄歴史民俗資料館





小川郷太郎

旧制第一高等学校、東京帝国大法科大政治学科に進学、1903年首席で卒業、大蔵省に入った。
36歳で京都大教授になり財政学を担当した。
大正6年(1917)京都市選挙区から衆議院議員に当選。
大正13年大学を止め、岡山2区から立候補、TOP当選。
選挙にはめっぽう強かった。

昭和11年広田内閣の商工大臣として初入閣。
昭和15年近衛内閣に鉄道大臣で入閣、どちらも補充入閣だった。
このころは政治家小川がもっとも輝いた時期。
商工大臣就任後お国入りでは地元あげて大歓迎、村民はちょうちん行列や鼓笛隊を繰り出して祝った。
60歳の時である。

鉄道大臣在任中の昭和16年4月、山陽線関門トンネル下り線が完成、軍需物資優先の貨物列車運行が始まった。
昭和18年、ビルマ政府最高顧問に任じられ赴任、同国の財政再建指導にあたった。
1年半後任務を終え帰国途中乗っていた緑十字船「阿波丸」が台湾沖で米潜水艦の魚雷攻撃で沈没、死去した。
享年69。

「岡山人じゃが2011」 岡山ペンクラブ 吉備人出版 2011年発行 
 






・・・・・・・・・・・・・・・

城見村からも、多くの票が入っている。


昭和3年、初めて普通選挙
         
【岡山2区】城見村の投票結果
犬養毅 政友会 庭瀬 1 ( 引退予定の犬養は担ぎ出され最下位当選。昭和6年首相。昭和7年5月15日77歳で死亡)
西村丹次郎  民政党 秦 13
星島二朗   政友会 藤戸  1
小川郷太郎  民政党 里庄 216
高草美代蔵 政友会 矢掛 121(落選)
難波秀夫 労農党 2 (落選)
小谷節夫 政友会 正田 1

・・・・・・・・・・・・・・・


撮影日・2021年3月31日  



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高岡大仏

2021年04月18日 | 銅像の人
場所・富山県高岡市  
制作・中野双山
設置・昭和8年

”日本三大仏”といわれているので、見に行ったが「奈良の大仏」「鎌倉の大仏」とは大きさも見栄えも、比較にならなかった。
でも高岡駅から大仏への道は、重伝建に指定された街並みや、古城があり、いい感じだった。




高岡大仏 (阿弥陀如来坐像)

最初は1745年木造の金色坐像が建立されたが、1821年に消失。
1841年再興されたが、もれも明治33年消失。
現在の大仏は昭和8年に完成したものである。
奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称せられている。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行







前田利長は,藩内の鋳物師を高岡に移住させ、拝領地を与えるという産業振興政策をとっていた。
高岡は鋳物の街となり、江戸時代には全国の寺の梵鐘を作っているのだ。
そして今は、銅像製造の街である。

高岡市には大仏もある。
高岡大物と呼ばれる15.4mのもので、市街地のど真ん中にある。
今あるものは昭和8年に完成したものだが、鋳物の街高岡をPRするためのものだと言えなくもない。

 「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行










「富山県の歴史」 坂井誠一  山川出版社 昭和45年発行

高岡鋳物師(いもじ)

古い城下町高岡に、由緒の古い鋳物師の集団があった。
彼らはかつて藩から特権をあたえられてその御用に応じたが、
今日では大工場が林立して銅・鉄器の鋳物の鋳造がさかんである。

高岡鋳物師のはじまりは、高岡に築城した前田利長が、7人の鋳物師を高岡に移住させたのにはじまる。
金屋町に屋敷地と町役免除の特権をあたえられ、寛永年中には50余名にふえ、鉄鋳物に従事していた。
藩の御用のほか、農具・日用具の制作であった。
文化2年87軒の鋳物師が仲間規約をつくって団結をかためている。
銅器の制作は明和・安永ごろはじめたという。
しかし銅地金の使用は藩の統制がきびしく、町奉行と交渉して銅の自由取引が可能となり生産が向上した。
安永2年(1855)横浜で米国人について、同国の好みと様式を研究し、輸出の道をひらいた。

一般に眼につきやすいものでは、金沢の兼六園にたつ日本武尊の巨像は、
明治13年(1880)喜多万衛門の工場で製作された。





撮影日・2015年3月10日




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忠犬ハチ公

2021年04月18日 | 銅像の人
場所・東京都渋谷区  渋谷駅前(ハチ公口)
制作・初代安藤照 再建安藤士(照の子)


忠犬ハチ公像は、昭和9年完成。渋谷駅前に設置。
忠犬ハチは、昭和10年死去。
忠犬ハチ公像は、昭和19年出陣式(金属類供出)
忠犬ハチ公像は、昭和23年再建
忠犬ハチ公像は、平成元年渋谷駅開発により移動、台座変更







戦犯美術

渋谷といえば駅前のハチ公が有名だ。
ハチ公銅像は忠犬ハチ公ともいったのを覚えている。
「忠義の犬ということだと・・・」
ふと考えた。
戦犯銅像は忠義の士が指定されるという。
そうなると忠犬はどうゆうことになるのか。

忠犬として称えられたハチ公は、戦争中の金属不足のために溶かされて兵器にされてしまった。
忠臣楠木正成や忠勇義烈の広瀬中佐像は供出を免れたが、同じ忠義でもハチ公は飼い主に忠義だったから残されなかったのか。

「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行






ハチ公の話は戦前アメリカにも紹介されていたので、銅像再建にGHQの許可も特に必要なかった。
しかし、呼称について「忠犬ハチ」でなく「ハチ」にという意見もあったようだ。








撮影日・2011年9月9日






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