しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

菅茶山

2021年04月07日 | 銅像の人
場所・広島県福山市神辺町湯野 「菅茶山記念館」



「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

菅茶山

同時代の学者・文化人から「当代一等の詩人」と評された菅茶山。
出自は農民身分ながら、寛政の改革を行った松平定信の別邸に招かれるなど、当時の人々から多大な尊敬を集めた人物である。

茶山は1748年備後国安那郡北川村で生まれた。
実家は農業とともに酒造業を営む裕福な家庭で、父は俳諧をたしなむ人物だった。
父の影響もあり、茶山は俳諧を学ぶようになると、和歌や漢詩にも興味を持ち始め、やがて本格的に学問に志すようになる。
19歳の時から京都・大坂に遊学。
当時一流の学者・文化人らと交流を深め、1781年頃には、神辺に私塾を開いて村の子供たちに学問を教え始めた。
この私塾は後に福山藩にう献上されて藩の郷塾となり、「廉塾(れんじゅく)」という名で全国に知られるようになる。
茶山は遊学中からその詩才が高く評価され、1812年には詩集「黄葉夕陽村舎詩」を刊行するや、これがベストセラーになり、
冒頭の「当代一等の詩人」の地位を確立する。
当時の神辺には、茶山を慕って全国各地から学者・文化人・生徒らが訪れたという。








「広島県の歴史」 山川出版社 1999年発行

菅茶山と廉塾

茶山は折から武士教育の重要性を認識した福山藩からたびたび儒員として登用する意向を伝えられ、扶持米をあたえられたが
官にはつかえず生涯神辺の地にあって民衆教育に専念した。
塾の私物化をさけ、その永続をはかった。

茶山の塾はしだいに有名なものとなり、
備後地方はもとより、中国・四国・九州・近畿さらには奥羽地方からも学生が遊学してきた。
その出自は武士から医者・僧侶・豪農商の子弟など330余人にのぼっている。
寛政から化政期にかけて、茶山はわが国第一等の詩人と称された。

親友頼春水の子山陽が、茶山の後継者として廉塾にきたのは文化6年(1809)のことであった。
しかし山陽は不行跡をして茶山を困らせ、結局1年余りで京都へ行ってしまう。
茶山の教育方針にもっとも反する人物であった。

茶山は廉塾の経営安定に心をくばった。
塾生がおさめる授業料はすべてたくわえて塾田をふやしていった。
塾田は茶山没後には171石になっている。

茶山没後、廉塾は甥の子である管三が継ぎ、明治維新まで存続した。




撮影日・2019年3月1日





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田辺朔郎像

2021年04月07日 | 銅像の人
場所・京都市左京区南禅寺草川町


琵琶湖疎水で有名な田辺朔郎。




【京都市公式】京都観光Navi

田辺朔郎
たなべさくろう
土木工学者。琵琶湖疏水の設計、工事監督者。
江戸生まれ。工部大学校卒業とともに京都府御用掛となり、疏水工事を完成。水力発電所設置を成功させた。
東京帝国大学教授。のちに京都帝国大学教授。第2疏水、水道など京都市三大事業にも尽力。
墓は東山区、市営大日山墓地。
蹴上公園に銅像。
1861(文久1)~1944(昭和19)





明治2年の「東京遷都」によって、急速に衰退した京都復興のため、
第3代京都府知事北垣国道は、琵琶湖と宇治川を結ぶ水運を開き、
同時に上水道、水力発電、灌漑、防火などに利用する琵琶湖疎水の一大プロジェクトを計画した。
工部大学校(現・東大工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎を、工事責任者に起用した。
この琵琶湖疎水工事は、設計も工事もすべて日本人による初の大土木事業であった。
古都京都は、いち早く近代化に着手し、このプロジェクトから日本初のさまざまな事業を展開している。



琵琶湖と京都市の標高差は約40mあり、琵琶湖疎水はこの標高差を利用した総合計画である。
第一疎水は明治18年(1885年)に着工され、明治23年に鴨川落合まで完成した。
大津市三井寺前の取水口から蹴上に至る。
蹴上は船溜まりで、ここから南禅寺船溜まりまで船はインクラインに載せられた。
第二疎水は電力需要と上水道のために明治41年に着手45年に完成した。
蹴上浄水場は、このとき造られた。
汚染防止に全線暗渠とされた。
この疎水の水は、水道水の他、発電、防火など京都市民の生活を現在も支えている。

「近代の産業遺産をたずねる」 日本修学旅行協会 山川出版社 2011年発行











撮影日・2010年4月8日



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三木武吉

2021年04月07日 | 銅像の人
場所・香川県高松市  栗林公園


保守合同で有名な政治家。栗林公園に銅像が建っている。


(Wikipedia)
保守合同

1955年(昭和30年)4月13日、三木は保守政党の結集を呼びかける。
三木は、社会党再統一に危機を抱いていた。
また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。
三木は党内合意を取り付けに動くと同時に、自由党に工作を開始する。
5月15日、三木は自由党総務会長の大野伴睦と会談を持つ。
三木は浪花節と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。
岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。
これに対して民主党内では三木武夫、松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。
最後に総裁に誰がつくか平行線をたどった。
結果、総裁を棚上げし、困難と思われた保守合同が成し遂げられ、日本初の統一保守党・自由民主党が結成された。
三木は、鳩山、緒方、大野とともに総裁代行委員に就任した(5ヵ月後、鳩山が自民党総裁に就任)。
1956年(昭和31年)4月から病床に臥すようになり、7月4日に東京・目黒の自邸で死去。享年71。






三木武吉

「昭和怪物伝」  大宅壮一著  角川文庫 昭和48年発行

三木武吉氏は明治17年、香川県高松市に生まれる。
早稲田大学の前身東京専門学校を卒業し、明治40年弁護士開業。
大正6年より衆議院議員に連続6選。
昭和14年報知新聞社社長。
昭和17年、21年の総選挙に香川県より当選したが追放となる。
昭和26年追放解除以来、
保守合同の立役者として活躍し、昭和31年没。


彼は終始鳩山をかついできたが、別に鳩山から恩恵をうけたわけでもなければ、
鳩山に心服しているわけでもない。
三木は政治的理想を実現する手段として鳩山を使っていたと思われるフジがある。

伝説めいた話もつたわる。
ある演説会場で、
「あなたは妾を5人もおもちだそうですが、指導的地位にあるものとしていいのですか」
これに対し、
「5人というのは間違いで、実は6人です。

吉田調伏や保守合同が、曲がりなりにも成功するにいたり、一時鳩山引退後の次期総裁までが、
彼の方にころがみそうな形勢になってきた。









撮影日・2015年11月28日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする