場所・鹿児島県鹿児島市城山町 「西郷隆盛洞窟」前
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/ec/05e1fd1f29c62de0b824be32ab4da2c5.jpg)
西郷軍は熊本まで攻めのぼるが、熊本城は落とせず、
九州を大行軍して鹿児島に帰り着く。
9月に入り、西郷は城山の狭い洞窟の中にいた。
9月24日、官軍が総攻撃を始める。
西郷は洞窟を出て、最前線に出ようと歩いていくが、途中で腹に官軍の弾丸が当たる。
西郷はかたわらの別府晋介にむかって、
「晋どん、晋どん、もうここでよかろ」
と言ってすわった。
晋介がその西郷の首を介錯した。
「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/27/f72f2ae3e7001a2d4022bd6921ba8c5d.jpg)
「西南戦争」
西郷隆盛率兵進発 明治10年2月15日(1877年)
西郷隆盛ら自刃 同年 9月24日
西南戦争の誘因は、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛が、東京を去って鹿児島に隠退したことからはじまる。
鹿児島の軍事訓練校でもある私学校の生徒が西郷の不遇に憤慨し、武力蜂起を実行にうつそうとした。
それを阻止していた西郷も遂に力およばず,止むなくこれを指揮して東上の兵を起こしたのである。
こういえば簡単だが、その内情はけっして単純ではない。
幕藩体制の崩壊と新政府政策の矛盾のあらわれ、廃藩置県に付随した徴兵制度による全国武士階級の没落、
政府の財政窮乏からくるインフレ、地租改正による農民の不安と秩禄喪失による士族の生活難、木戸と西郷の対立、
派閥的には長州と薩州の反目が内在している。
西郷はブルドーザーのごとく旧制度を破壊したが、緻密に鉄筋を組み立てていく建築家ではなかった。
武人は敵の破壊が任務であって建設者ではない。
西郷は根っからの武人だった。
幕府を兵力で倒した西郷が、その後に見たものは新政府による廃刀令、徴兵制、地租改正などの他、
士族の失業に与えるに長期年賦の秩禄公債と気にいらぬ改革ばかりだった。
鉄道敷設に金を使うよりも兵力の充実に回すべきだと彼は不平満々だった。
二百万の士族の困窮を、新政府が見殺しにしているのも不満にたえなかった。
・・・
9月24日午前4時、号砲3発、その響きは殷々として城山を震わせた。
雲霞の如き官軍は、こうして四方より城山に総攻撃をかけたのである。
別府晋助と逸見十郎太は西郷の左右に従がっていたが形勢は急なり、
「もう、ゆはごはんすめいか}
「まだまだ」
また行くこと一町余り。
四方から集中した弾丸は驟雨のごとくである。
逸見はまた問うたが「まだまだ」と西郷は言った。
流れ弾丸が西郷の股と腹を貫通した。
西郷は別府をかえりみて、
「晋どん、晋どん。もう、ここでよか」と云い、地に座った。
別府晋助は西郷に向かい、
「ごめんなったもんし」と、
刀を持って西郷の首に打ち下した。
隆盛、51歳であった。
この日、戦闘は午後4時をもって始まり、同9時に終わった。
西郷の首は一兵卒が発見し、これを清水で洗って浄めた。
山県の回想に曰く。
「このとき余は西郷の首実検をし、一面には征伐の任務を全うしたことを喜んだが、
他の一面には、一代の傑出したる英雄がかくのごとき運命に遭遇したかと思い、
覚えず厳然として涙下り、哀情が耐えられなかった」(公爵山県有朋伝)
西郷としては、せめて故郷の鹿児島に戻って死んだのが本望だったろう。
「私説・日本合戦譚」 松本清張 文春文庫 1977年発行
撮影日・2013年8月8日
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西郷軍は熊本まで攻めのぼるが、熊本城は落とせず、
九州を大行軍して鹿児島に帰り着く。
9月に入り、西郷は城山の狭い洞窟の中にいた。
9月24日、官軍が総攻撃を始める。
西郷は洞窟を出て、最前線に出ようと歩いていくが、途中で腹に官軍の弾丸が当たる。
西郷はかたわらの別府晋介にむかって、
「晋どん、晋どん、もうここでよかろ」
と言ってすわった。
晋介がその西郷の首を介錯した。
「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行
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「西南戦争」
西郷隆盛率兵進発 明治10年2月15日(1877年)
西郷隆盛ら自刃 同年 9月24日
西南戦争の誘因は、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛が、東京を去って鹿児島に隠退したことからはじまる。
鹿児島の軍事訓練校でもある私学校の生徒が西郷の不遇に憤慨し、武力蜂起を実行にうつそうとした。
それを阻止していた西郷も遂に力およばず,止むなくこれを指揮して東上の兵を起こしたのである。
こういえば簡単だが、その内情はけっして単純ではない。
幕藩体制の崩壊と新政府政策の矛盾のあらわれ、廃藩置県に付随した徴兵制度による全国武士階級の没落、
政府の財政窮乏からくるインフレ、地租改正による農民の不安と秩禄喪失による士族の生活難、木戸と西郷の対立、
派閥的には長州と薩州の反目が内在している。
西郷はブルドーザーのごとく旧制度を破壊したが、緻密に鉄筋を組み立てていく建築家ではなかった。
武人は敵の破壊が任務であって建設者ではない。
西郷は根っからの武人だった。
幕府を兵力で倒した西郷が、その後に見たものは新政府による廃刀令、徴兵制、地租改正などの他、
士族の失業に与えるに長期年賦の秩禄公債と気にいらぬ改革ばかりだった。
鉄道敷設に金を使うよりも兵力の充実に回すべきだと彼は不平満々だった。
二百万の士族の困窮を、新政府が見殺しにしているのも不満にたえなかった。
・・・
9月24日午前4時、号砲3発、その響きは殷々として城山を震わせた。
雲霞の如き官軍は、こうして四方より城山に総攻撃をかけたのである。
別府晋助と逸見十郎太は西郷の左右に従がっていたが形勢は急なり、
「もう、ゆはごはんすめいか}
「まだまだ」
また行くこと一町余り。
四方から集中した弾丸は驟雨のごとくである。
逸見はまた問うたが「まだまだ」と西郷は言った。
流れ弾丸が西郷の股と腹を貫通した。
西郷は別府をかえりみて、
「晋どん、晋どん。もう、ここでよか」と云い、地に座った。
別府晋助は西郷に向かい、
「ごめんなったもんし」と、
刀を持って西郷の首に打ち下した。
隆盛、51歳であった。
この日、戦闘は午後4時をもって始まり、同9時に終わった。
西郷の首は一兵卒が発見し、これを清水で洗って浄めた。
山県の回想に曰く。
「このとき余は西郷の首実検をし、一面には征伐の任務を全うしたことを喜んだが、
他の一面には、一代の傑出したる英雄がかくのごとき運命に遭遇したかと思い、
覚えず厳然として涙下り、哀情が耐えられなかった」(公爵山県有朋伝)
西郷としては、せめて故郷の鹿児島に戻って死んだのが本望だったろう。
「私説・日本合戦譚」 松本清張 文春文庫 1977年発行
撮影日・2013年8月8日