場所・山口県萩市堀内
制作・山畑阿利一
設置・昭和38年
田中義一
元治元年(1864)~昭和4年(1929)
長門生まれ。
陸軍軍人・政治家。
大正7年原内閣の陸相となり、軍備の近代化、師団の増設、シベリア出兵を推進。
大正10年大将、山県有朋亡きあと陸軍長州閥の総帥となった。
昭和2年首相。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/52/1b2b6ca20bf6faf49140889c3934079e.jpg)
「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行
張作霖の爆殺 (当時は”満州某重大事件”)
昭和3年(1928)6月3日、北京を引き揚げた張作霖の特別列車は、
4日朝5時23分鉄橋下で爆破され、貴賓室に乗っていた張作霖は致命傷を負い、間もなく死亡した。
爆破計画の首謀者は関東軍の高級参謀河本大作である。
張作霖の爆殺により東三省を弱体化し、乗じて満州を中国本土から切り離そうと考えていた。
田中義一首相のように、張作霖を日本のかいらい政権として利用するのでは満足しなかったのである。
張作霖の長男張学良は、河本大佐らの謀略に乗ずるすきを与えないように、張作霖の喪をしばらくせず、重傷とした。
国民党の勢力は満州に幅広く、奥まで浸透した。
全満州に青天白日旗がひるがえった。
張作霖が爆殺されたこと、河本大作がやったこと、を知った田中首相は
西園寺公望公に意向を聞いたところ、
「直ちに公表して厳罰に処するのが、日本の名誉を保つみち」だと、たしなめられた。
12月24日ようやく昭和天皇に拝謁して、
「遺憾ながら帝国軍人が関与しているものの如く、目下鋭意調査中なるも、
もし事実なりとせば、法に照らし、厳罰たる処断をいたします」と言明した。
しかし、時間の経過とともに、陸軍内部では公表に反対する意見が強くなった。
「内輪の恥は極力隠す」というやくざのような組織悪の論理がまかり通ったのである。
軍紀を厳正に保ってこそ軍人は尊敬されるのだ、という単純な事実は無視され、
仲間の罪をおおい隠すのが美徳と考えられはじめた。
田中首相は断固処罰にふみきるべきであったが、閣僚の変心などもあり、
天皇に対する約束と陸軍および閣僚からの圧力で苦しみぬき、
1929年6月28日、天皇に
「関東軍は爆殺に無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」
と前の約束とは矛盾したわけのわからない弁解を申し上げた。
天皇は、
「首相ののぶるところは前後全く相反するではないか?」とたしなめられ、
鈴木侍従長に対し、
「田中総理のいうところは、ちっともわからぬ。再び聞くことはいやだ」ともらされた。
田中首相は、再び参内して鈴木侍従長にとりなしを乞うたが果たせず、
「陛下の御信任は去った」
と7月2日内閣総辞職。
田中は総辞職後3ヶ月もたたない9月29日、狭心症で急逝した。
そのころ自殺説がささやかれた。
彼の失意と絶望は想像に難くない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/ff/4582229529c799085b5c867274b14e45.jpg)
満州某重大事件
昭和3年6月4日未明、
奉天軍閥の首領張作霖をのせた特別列車が奉天駅の手前約1kmで突如轟音と共に爆破し、貴賓室に乗っていた張は重傷を負い、
まもなく死亡した。
陸軍省はたたちに、犯人は国民政府軍の便衣隊であると声明した。
地元紙はいっせいに事件の背後に日本ありと書き立てた。
日本の上層部でも、たとえば元老西園寺公望は、犯人は日本陸軍ではないかと見抜いた。
田中首相は、もし犯人が部内にいるとわかれば厳重に処罰すると上奏した。
犯人は関東軍高級参謀河本大作であることが、その後判明した。
この事件は張作霖の子張学良を南京政府と結び、田中内閣の命取りとなったのである。
「教養人の日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行
撮影日・2011年10月26日
制作・山畑阿利一
設置・昭和38年
田中義一
元治元年(1864)~昭和4年(1929)
長門生まれ。
陸軍軍人・政治家。
大正7年原内閣の陸相となり、軍備の近代化、師団の増設、シベリア出兵を推進。
大正10年大将、山県有朋亡きあと陸軍長州閥の総帥となった。
昭和2年首相。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/52/1b2b6ca20bf6faf49140889c3934079e.jpg)
「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行
張作霖の爆殺 (当時は”満州某重大事件”)
昭和3年(1928)6月3日、北京を引き揚げた張作霖の特別列車は、
4日朝5時23分鉄橋下で爆破され、貴賓室に乗っていた張作霖は致命傷を負い、間もなく死亡した。
爆破計画の首謀者は関東軍の高級参謀河本大作である。
張作霖の爆殺により東三省を弱体化し、乗じて満州を中国本土から切り離そうと考えていた。
田中義一首相のように、張作霖を日本のかいらい政権として利用するのでは満足しなかったのである。
張作霖の長男張学良は、河本大佐らの謀略に乗ずるすきを与えないように、張作霖の喪をしばらくせず、重傷とした。
国民党の勢力は満州に幅広く、奥まで浸透した。
全満州に青天白日旗がひるがえった。
張作霖が爆殺されたこと、河本大作がやったこと、を知った田中首相は
西園寺公望公に意向を聞いたところ、
「直ちに公表して厳罰に処するのが、日本の名誉を保つみち」だと、たしなめられた。
12月24日ようやく昭和天皇に拝謁して、
「遺憾ながら帝国軍人が関与しているものの如く、目下鋭意調査中なるも、
もし事実なりとせば、法に照らし、厳罰たる処断をいたします」と言明した。
しかし、時間の経過とともに、陸軍内部では公表に反対する意見が強くなった。
「内輪の恥は極力隠す」というやくざのような組織悪の論理がまかり通ったのである。
軍紀を厳正に保ってこそ軍人は尊敬されるのだ、という単純な事実は無視され、
仲間の罪をおおい隠すのが美徳と考えられはじめた。
田中首相は断固処罰にふみきるべきであったが、閣僚の変心などもあり、
天皇に対する約束と陸軍および閣僚からの圧力で苦しみぬき、
1929年6月28日、天皇に
「関東軍は爆殺に無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」
と前の約束とは矛盾したわけのわからない弁解を申し上げた。
天皇は、
「首相ののぶるところは前後全く相反するではないか?」とたしなめられ、
鈴木侍従長に対し、
「田中総理のいうところは、ちっともわからぬ。再び聞くことはいやだ」ともらされた。
田中首相は、再び参内して鈴木侍従長にとりなしを乞うたが果たせず、
「陛下の御信任は去った」
と7月2日内閣総辞職。
田中は総辞職後3ヶ月もたたない9月29日、狭心症で急逝した。
そのころ自殺説がささやかれた。
彼の失意と絶望は想像に難くない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/ff/4582229529c799085b5c867274b14e45.jpg)
満州某重大事件
昭和3年6月4日未明、
奉天軍閥の首領張作霖をのせた特別列車が奉天駅の手前約1kmで突如轟音と共に爆破し、貴賓室に乗っていた張は重傷を負い、
まもなく死亡した。
陸軍省はたたちに、犯人は国民政府軍の便衣隊であると声明した。
地元紙はいっせいに事件の背後に日本ありと書き立てた。
日本の上層部でも、たとえば元老西園寺公望は、犯人は日本陸軍ではないかと見抜いた。
田中首相は、もし犯人が部内にいるとわかれば厳重に処罰すると上奏した。
犯人は関東軍高級参謀河本大作であることが、その後判明した。
この事件は張作霖の子張学良を南京政府と結び、田中内閣の命取りとなったのである。
「教養人の日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行
撮影日・2011年10月26日