しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

田中義一  

2021年04月22日 | 銅像の人
場所・山口県萩市堀内
制作・山畑阿利一
設置・昭和38年


田中義一
元治元年(1864)~昭和4年(1929)
長門生まれ。
陸軍軍人・政治家。
大正7年原内閣の陸相となり、軍備の近代化、師団の増設、シベリア出兵を推進。
大正10年大将、山県有朋亡きあと陸軍長州閥の総帥となった。
昭和2年首相。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行









「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書  1995年発行

張作霖の爆殺 (当時は”満州某重大事件”)


昭和3年(1928)6月3日、北京を引き揚げた張作霖の特別列車は、
4日朝5時23分鉄橋下で爆破され、貴賓室に乗っていた張作霖は致命傷を負い、間もなく死亡した。
爆破計画の首謀者は関東軍の高級参謀河本大作である。
張作霖の爆殺により東三省を弱体化し、乗じて満州を中国本土から切り離そうと考えていた。
田中義一首相のように、張作霖を日本のかいらい政権として利用するのでは満足しなかったのである。

張作霖の長男張学良は、河本大佐らの謀略に乗ずるすきを与えないように、張作霖の喪をしばらくせず、重傷とした。
国民党の勢力は満州に幅広く、奥まで浸透した。
全満州に青天白日旗がひるがえった。


張作霖が爆殺されたこと、河本大作がやったこと、を知った田中首相は
西園寺公望公に意向を聞いたところ、
「直ちに公表して厳罰に処するのが、日本の名誉を保つみち」だと、たしなめられた。

12月24日ようやく昭和天皇に拝謁して、
「遺憾ながら帝国軍人が関与しているものの如く、目下鋭意調査中なるも、
もし事実なりとせば、法に照らし、厳罰たる処断をいたします」と言明した。


しかし、時間の経過とともに、陸軍内部では公表に反対する意見が強くなった。
「内輪の恥は極力隠す」というやくざのような組織悪の論理がまかり通ったのである。
軍紀を厳正に保ってこそ軍人は尊敬されるのだ、という単純な事実は無視され、
仲間の罪をおおい隠すのが美徳と考えられはじめた。

田中首相は断固処罰にふみきるべきであったが、閣僚の変心などもあり、
天皇に対する約束と陸軍および閣僚からの圧力で苦しみぬき、
1929年6月28日、天皇に
「関東軍は爆殺に無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」
と前の約束とは矛盾したわけのわからない弁解を申し上げた。

天皇は、
「首相ののぶるところは前後全く相反するではないか?」とたしなめられ、
鈴木侍従長に対し、
「田中総理のいうところは、ちっともわからぬ。再び聞くことはいやだ」ともらされた。


田中首相は、再び参内して鈴木侍従長にとりなしを乞うたが果たせず、
「陛下の御信任は去った」
と7月2日内閣総辞職。
田中は総辞職後3ヶ月もたたない9月29日、狭心症で急逝した。
そのころ自殺説がささやかれた。
彼の失意と絶望は想像に難くない。








満州某重大事件

昭和3年6月4日未明、
奉天軍閥の首領張作霖をのせた特別列車が奉天駅の手前約1kmで突如轟音と共に爆破し、貴賓室に乗っていた張は重傷を負い、
まもなく死亡した。
陸軍省はたたちに、犯人は国民政府軍の便衣隊であると声明した。
地元紙はいっせいに事件の背後に日本ありと書き立てた。
日本の上層部でも、たとえば元老西園寺公望は、犯人は日本陸軍ではないかと見抜いた。
田中首相は、もし犯人が部内にいるとわかれば厳重に処罰すると上奏した。
犯人は関東軍高級参謀河本大作であることが、その後判明した。
この事件は張作霖の子張学良を南京政府と結び、田中内閣の命取りとなったのである。


「教養人の日本史5」  藤井松一  現代教養文庫  昭和42年発行





撮影日・2011年10月26日




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板垣退助  (高知)

2021年04月22日 | 銅像の人
場所・場所・高知県高知市丸ノ内








板垣死すとも

土佐の藩兵を率い、戊辰戦争の優秀な指揮官だったです。
すぐれた軍人とも言えるだろうと思います。


薩長土肥の雄藩連合で徳川幕府を倒したが、政府の中枢は薩長だけがうまいところをさらった。
むしろ薩長藩閥を倒すため、おれたちは自由民権運動にいくんだというところもある。

板垣が傷を受けたのは明治15年で、明治14年には大隈重信が追われて肥前がなくなった。
明治の元勲というものは、みな薩長だけが占めてしまう体制が確立するのです。

板垣は非常に清貧です。
清貧で長生きしました。
ヒゲなんかが、また特徴のあるヒゲですね。
百円札なり、お礼に使用されるのにはいい人物ですね。
相撲が好きで、太刀山を富山から連れてきて相撲取りにした。
晩年は、相撲協会の理事長みたいなことをしていました。


彼の本領は、やはり一代華族論ですね。
ほかの連中が、華族になれば非常な特権ですから、なかなか恋々として、これをうけついでゆく考えでした。
子孫は親父さんの意志を継いで爵位を辞した。気持ちがいいですね。
戦後、華族がなくなってみると、いよいよ彼の主張はすぐれていると私は思うのです。


高知では、ちゃんと銅像も新しく立てられたり、戦前には板垣会館まであったのです。
残念なのは、大学を作っておけばよかったのですよ。
板垣大学とか自由大学とか。惜しかったですね。


「歴史よもやま話」  池島進平  文春文庫  1982年発行















撮影日・2018年3月24日



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西郷隆盛(上野)

2021年04月22日 | 銅像の人
場所・東京都台東区  上野公園
高村光雲 1897年


戦時中の、金属類供出で溶かされるのをまぬがれた銅像は、
戦後になると、戦犯扱いの人物像があった。
上野の西郷さんも危機一髪だったようだ。


戦犯美術
「そうすると上野の西郷さんは」
「西郷隆盛は日本最初の陸軍大将ですからね、当然リストアップされました。
しかし着流しで犬を連れて散歩をしている像です。
復権はしましたが賊軍の大将という汚名を着せられた経緯があるので、最終的には外しましたね」

「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行








上野公園の西郷像は明治31年に除幕されている。
帝国憲法発布(明治22年)の特赦によって西郷の賊名が除かれ正三位が追贈されたのを記念して建設に着手し、9年後に完成したのだ。
除幕式にはまだ存命中だった西郷の未亡人が招かれていて、
「あの人はこんな人ではなかった」と言ったことが有名だ。
行儀のいい人だったから、人前に立つのにこんな着流しの姿でくるような人ではない、
と言いたかったそうだ。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行









西郷隆盛

王政復古や戊辰戦争を主導し、
江戸城無血開城を果たした革命家。
銅像は明治を代表する彫刻家の高村光雲作。
西郷には写真が残っておらず、弟の西郷従道を参考にした。
頭が大きいのは、下から見上げた時にバランスよく見せるためである。
また、当初は騎馬像の予定だったが、予算不足で浴衣姿に変更され、
西郷夫人は「夫は浴衣で散歩なんかしなかった」と漏らしたという。

「日本の銅像完全名鑑」






西南戦争

談・西郷吉之助
参議院議員・自民党・鹿児島県選出・貴族院議員を経て当選4回
西郷隆盛の孫


じいさんは32.、33歳から38歳まで3回も奄美大島に島流しになって、
3回目の島流しがすんで、ちょうど38歳の時に、ばあさんと結婚したわけです。
西南戦争時、父は12歳で従軍はできず、磯で最後の別れをしたわけです。

じいさんは29貫もあり、相撲並みです。

上野の銅像は、
ばあさんの妻の立場では、ああいうぞんざいな姿は・・・いやがった。
普段は非常にきちんとした人だったということを、よく私たちに聞かせましたよ。
しかしいまから言えば、上野の方が大衆的ですね。

「歴史よもやま話」 池島新平 文春文庫  1982年発行







撮影日・2018年8月5日



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