しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

千姫様

2021年04月08日 | 銅像の人
場所・兵庫県姫路市  姫路城






「千姫様」  平岩弓枝  角川書店  平成2年発行 

千姫様


冬の陣が終わったとたんに、あっという間に外堀、内堀を埋め、
二の丸、三の丸を打ち壊したから、本丸はまるで裸同然のみすぼらしい姿になった。
秀頼が口惜しげにいうのを、千姫は泣きたい気持ちで聞いていた。



・・・・

「貴公は坂崎出羽守どのではないか」
坂崎出羽守と呼ばれた男が、千姫を見て土に膝を突いた。
「姫君には、よくぞご無事で・・・坂崎出羽守、御案内申し上げる。」

「よく戻って来た。さぞかし怖い思いをしたであろうな」
この孫娘に会うのは七歳の時以来だと家康は思った。






 
桑名城で、千姫と本田忠刻の華燭の典がとり行われて後、
人々の耳目を驚かせたのは、坂崎出羽守が乱心のため、家臣によって殺害されたが、
将軍家の格別の思し召しをもって坂崎の家は取り潰しにならずにすむらしいということであった。


忠刻との初夜で、千姫は、はじめて自分の女が花開いたように思った。
夫の愛撫に我を忘れ、取り乱し、慎みをかなぐりすてて絶叫する夜が重なって、
千姫はさながら牡丹の花のようなあでやかさであった。







秋、本多家は将軍秀忠より姫路へ国替えを拝命した。
更に、千姫の化粧料として十万石を忠刻に与え、
「何事も、東照大権現様の御遺命である。
白鷺城は、千姫にふさわしい名城、本多家によって、より美しい城に仕立てるように・・・」
との御沙汰があった。

千姫が幸千代を出産し、御城内は無論のこと、播州の津々浦々まで、祝賀の太鼓が打ち鳴らされ、
百姓、漁民に至るまで仕事を休み、町々の主だった者には御城内から祝い酒が下されるといった大賑わいになった。
「これで我が本多家は万々歳」
・・
幸千代は三歳の愛らしい盛りに亡くなった。
夫婦の夜が、前にも増して濃くなって、やがて千姫はみごもった。


夫の死を知った時、千姫は狂乱した。
老いた父が、若い息子の死を見送るのであった。
しかも、その息子には跡継ぎの嫡子がいない。
家光の姉への思いで千姫の江戸へ帰ることが決まった。







弟の家光の長男竹千代(4代将軍家綱)の母代わりとなり、千姫はまさに徳川宗家の感があった。
家光は48歳の生涯を閉じ、千姫は55歳で弟を見送ることになった。

千姫が生涯を終えたのは、寛文6年2月6日のことで、70歳の古希を迎えた年の事であった。
千姫の死に対して、諸大名は総登城し、将軍に弔意を述べた。




撮影日・2018年12月14日




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佐々木盛綱

2021年04月08日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市天城






平氏は扇をさしあげ源氏を招く。

盛綱は部下十五人と馬にまたがり、さっと海に乗り入れた。
盛綱らはどんどん進み、とうとう海を渡りきってしまった。
まず名乗りである。

「今日海を渡り、敵陣に進む大将軍をば誰とか見る。
宇多天皇より九代の孫、
近江の国の住人、
佐々木源三が三男、
三郎盛綱なり、
平家の方にわれと思われん者は大将もさむらいも落ち合って組めや、組めや。」(源平盛衰記)


「歴史の旅 吉備」 神野力 秋田書店 昭和46年発行








「岡山県の歴史散歩」 岡山県高校教育研究会編  山川出版社  1976年発行

藤戸合戦

「平家物語」は、戦の模様をいきいきとつたえている。
1184年(寿永3)12月はじめ、源平両軍は藤戸海峡を挟んで対陣していた。

児島に陣をしいた平家側は扇でまねいて挑発したが、水軍をもたぬ悲しさ、源氏側は手のつけようがなかった。
ところが12月6日夜のこと、
盛綱は部下とともに騎馬で海峡をおしわたり、平家の不意をついて先陣の功をあげた。
盛綱はその手柄によって、源頼朝から児島をたまわった。

盛綱が先陣の功名によっていたころ、浮洲岩のあたりにひとりの若い漁師の死体がただよっていた。
先陣の功をあせった盛綱が、一すじの浅瀬が同僚に漏れることをおそれ、殺害したのだった。

笹無山
漁師の母親は『佐々木といえば笹までにくい』と狂ったように笹をかきむしり、後世まで笹がはえなかった。





(藤戸寺)


十余年前、初めて「笹無山」を訪れた。
山は笹で覆われ、800年の月日を感じた。


撮影日・2017年3月12日





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