しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

三浦環

2021年04月21日 | 銅像の人
場所・長崎県長崎市南山手


三浦環
「蝶々夫人」で絶賛された国際的プリマドンナと


明治37年東京音楽学校率。
在学中はピアノを滝廉太郎、音声を幸田延に学ぶ。
陸軍軍医と結婚、その後離婚。
大正2年医学博士と再婚。
翌々年、夫とともにドイツに留学。
大正4年ロンドンで「蝶々夫人」を歌い大絶賛を博した。
その後は欧米各地の大劇場で公演、”マダム・ミウラ”の蝶々夫人は”世界の三大芸術”とまでいわれた。
昭和11年帰国、
昭和12年歌舞伎座で歌い、聴衆は日本人初の国際的プリマの歌に酔いしれた。

「大正クロニクル」 世界文化社 2012年発行










(Wikipedia)
三浦環

三浦 環(みうら たまき、
1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、
日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。
十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、
国際的に広く知られた。










撮影日・2012年5月9日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新渡戸稲造

2021年04月21日 | 銅像の人
場所・盛岡市内丸 与の字橋右岸





大正13年、アメリカで排日移民法

アメリカで排日移民法が施行された。
移民法の成立は、日本人の対米感情に悪影響を与えた。
親米派、新渡戸稲造にも不信感を植え付けた。
彼は「排日移民法が撤廃されるまではアメリカの土を踏まず」と宣言した。
幣原喜重郎のように過剰反応しない人物もいたが、
昭和天皇は、
太平洋戦争の遠因は米国による移民拒否にある、と戦後語っている。

「大正クロニクル」 世界文化社 2012年発行











(Wikipedia)

新渡戸稲造

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、
1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)
は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。
国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。
日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。



盛岡観光協会web

新渡戸稲造像
作者:高田博厚
市役所そばの与の字橋ぎわには「新渡戸稲造像」 が建っています。
この彫刻は、高い理想に燃えながらも、現実の無理解と戦わなければならなかった稲造の、 苦悩と強さを表現した作品です。






撮影日・2018年8月6日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

板垣退助 岐阜

2021年04月21日 | 銅像の人
場所・岐阜県岐阜市  岐阜公園
制作・柴田佳右
設置・昭和25年

明治15年自由党総理として岐阜中教院にて演説、
「板垣死すとも自由は死なず」と有名な言葉を残したが、一命をとりとめる。
その板垣総理遭難の地である。





板垣退助

天保8年(1837)~大正8年(1919)
高知藩士。
戊辰戦争では総督府参謀となり、会津攻略に戦功があった。
明治7年愛国党を結成、自由民権運動を展開。


「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行










「教養人の日本史」 現代教養文庫  社会思想社  昭和42年発行

「板垣死すとも・・・・・」

天かに知られた名セリフである。
明治15年(1882)3月、東海道遊説の旅に出た自由党総裁板垣は、
4月6日岐阜で演説をした。
そのあと会場の玄関を出たとたんに刺客に襲われ、手と胸に傷を受けたが、
一命は助かった。

板垣らは政府の放った刺客と直感したらしいが、犯人は愛知県士族の小学校教員で、
板垣国賊説を頭から信じ込み、ことに及んだのである。

このことが全国に伝わるや、各地の自由党員が隊を組んで岐阜にかけつけた。
政府弾劾の声が広まり、山県有朋は急いで宮中にかけこみ、
板垣を慰問する勅使派遣が決められた。
これが大いに効果があったようで、板垣は勅使派遣を聞いて感涙にむせんだという。

傷が治り東京に帰った板垣に、伊藤・山県・井上馨らの計略が待っていた。
政商三井から出させた金で板垣を洋行させようというのだ。
板垣は外遊に踏み切り、事態は政府の期待通りにすすんだ。




撮影日・2011年8月5日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷隆盛 (鹿児島)

2021年04月21日 | 銅像の人
場所・鹿児島県鹿児島市  鹿児島市立美術館前
安藤照 1937年


銅像の西郷は、いかめしい軍服姿で堂々と立ち、
右手を軽く折って腰にそえている。
頭が大きく、体つきも貫禄十分だ。
この姿は、明治6年、初代陸軍元帥として習志野で行われた大演習を指揮した時の姿を表現したものであるそうだ。
昭和2年、南洲没後50年記念事業として企画され、10年後の昭和12年に除幕されたという銅像だ。
城山の西郷像は堂々たる正装である。
一段高いところに立って、鹿児島の街を見守っているかのようでもある。
たとえ一時的には賊の汚名をきせられたのだとしても、
鹿児島の偉人と言えば西郷隆盛なのだ。
鹿児島の人が誰よりも西郷を尊敬しているという、
その気分がひしひしと伝わってくるような銅像だった。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行










「氷川清話」  勝海舟 角川文庫  昭和47年発行

西郷南洲

おれは、今までに恐ろしいものを二人みた。
それは横井小楠と西郷南洲だ。

西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方がまさるほどだったけれども、
いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。


西郷隆盛の人物
おれが初めて西郷に会ったのは、兵庫開港延期の談判委員を仰せつけられたために、京都に入る途中に,大坂の旅館で会った。
なかなか立派な風采だったよ。


〇坂本龍馬がかつて、おれに「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいっそ会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやった。
その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、
「なるほど西郷というやつは、少したたけば少し響き、大きくたたけば大きく響く。
もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。
西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ。
おれの一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。


官軍が江戸城にはいってから、市中の取り締まりがはなはだめんどうになってきた。
幕府はたおれたが、新政府はまだしかれない。無政府になっていた。
しかるに西郷は意外にも、実に意外にも
「どうかよろしくお頼み申します。後の処置は、勝さんがなんとかなさるだろう」と言って、江戸を去ってしまった。
常人と違って、よほど大きくできていたのだ。














撮影日・2013年8月8日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする