しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

紫式部像

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・滋賀県大津市 石山寺







後宮の光と影『源氏物語』



「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり」

女御は后の下で当時4~5人、
更衣はさらにその下の階級で20人前後。
要するにハーレムである。
前者は大臣の娘、後者は大納言の娘という出身だが、その中にも家柄の差がある。
問題の更衣(桐壷)は、家柄はさほどではなかったが、すぐれて寵愛を受けていた。

閉鎖的な女性社会だから、陰湿なことはおよその見当がつく。
「参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿、ここかしこの道に、 あやしきわざをしつつ、
御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり」

桐壷が帝の寝所へ通う廊下に、汚物をまきちらして妨害したというのである。
そればかりか、中廊下の出入り口に錠をおろして閉じ込めてしまったことすらある。
「みやび」などとは縁遠い、重苦しい人間関係である。



重苦しいと言えば、
瀬戸内晴美さんが、当時の女性たちが身長を一尺も越すような髪をどう扱っていたのか、という疑問を呈していた。
洗髪しようものなら、重くて痛くていられない。
男と寝るときも、興奮したらしわくちゃになって、躰にまきついてしまうだろうというのである。
このようなことを調べた歴史家も、一人もいないらしい。

長い長い黒髪が裸身にまとわりついているさまは、
なかなかエロチックにはちがいないが、
女性の立場からすればわずらわしかろう。

昼の装束にしても、極端な場合は20枚も重ね着をするなど、きわめて非活動的なものだった。
およそこうした生活様式から想像されるものlは、発散の機会もなく内へ内へとこもっていく感情であろう。
単純な嫉妬は怨恨となり、燃えさかるような瞋恚(しんい)に成長する。
嫉妬に目がくらんで廊下に糞尿をまきちらすなどは、さして異常なことでもなかっただろう。

桐壷はこのような恨みの総攻撃を浴びて、光源氏を生み落とすと間もなく死んでしまう。


「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行










女性愛書家の生涯『更級日記』


后の位も何にかわせむ


本が読みたくて----死ぬほど読みたくて、神にまで祈るというような気持ちは、出版物があふれている現代にあっては想像もできまい。

だが、菅原孝標の女(むすめ)はそうだった。
千年も前の人々は、本が読みたければ伝手を求めて借りるほかはなかった。
ついに等身大の薬師仏をつくり、手を洗い清め、人の見ていないときに
「京へ上らせください、物語の、あるかぎり見せ給え」と額をつき、祈ったという。

『更科日記』を読んで、まず胸が熱くなるのは、この純な心の女性が書物に寄せる、深く大きな愛情である。


「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行










撮影日・2015年12月14日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仁科芳雄

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・岡山県浅口郡里庄町  里庄歴史民俗資料館

原子力で有名な仁科芳雄博士、
里庄町出身の偉人。






仁科芳雄

明治23年里庄町浜中に生まれた。
東京帝国大学卒業後、留学し「クラウン仁科の式」を発表、
理学博士の学位を受けた。
昭和19年1月大サイクロトロンを建設。
21年文化勲章を授与され、30年仁科記念財団が創立された。
胸像は歴史民俗資料館の西側に建立され、
昭和55年11月除幕式が行われた。
福本紀孝制作

「ふるさとの想い出写真集」 森脇正之編  国書刊行会  2020年発行









撮影日。2021年3月31日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良寛さん (円通寺公園)

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市玉島柏島   円通寺公園







良寛

談・水上勉


玉島は、なんともいえないのどかなところなんです。
山は、いまはほんの公園です。
あそこを円通寺山といいましても、ほんの小高いものです。

越後の国上とか弥彦とかいったような、しかも北の海がすぐそこにずり落ちていて、波しぶきがかかるといったような険路がある・・・・・。
出雲崎なんてのはまた特に、黒縄の道といってもいいくらいの帯のような、険しいところでございますね。

だから、そういうところに育った良寛さんが、二十代で、のどかな南国で、全く越後と風光の違う、おだやかなところにいかれた。
そこで修業なすった長い年月というのが、どこかしらん子どもと遊ぶのどかな人をつくりあげていると思うんです。

国仙和尚が下さった詩がございますね。
”お前は立派な境涯になった。
わたしはおまえに何かやりたいと思うけどもやるものがないので、
裏へいって木を一本切ってきた。
これをおまえ、杖にして旅に出よ、
眠たいときはこれをどっか壁に立てかけとけ”
という詩なんでございます。


・・・・


それから十年以上不明なんです。
行方不明です。
34,35歳の時出雲崎の町はずれの狭いところに破れ堂があり、不思議な人がいる。
乞食をして歩いて、お米が余ればスズメにくれてやっておる。
のぞいてみると、机が一つあり、書物が一冊あるきり、壁には自分の歌とか詩を書いて貼り付けている。
どうも、昔、橘屋を出て行った栄蔵さんに似ている。

良寛さんの思想は一貫していて、
伽藍を持ったり、お寺に座ると坊さんというものは堕落する、
真の禅生活というものは、やはり放浪乞食にあると。
腹が減れば托鉢してそれを得て、そして暮らせばいいんだ、と。
そういった思想の実践をやられたように見受けられます。

良寛さんもむしのいい人だったんだな。なぜ働かなかったんだろう。
わたしは、働いて自分のとるものをとって、余計にとれたら恵むという、それが清貧だと思うんです。
もろうて逼塞なら誰だってやりますよ。
わたしはつくって逼塞というのがやはり一番尊い。
「一日なさざれば一日食らわず」、それがいいと思うんです。



・・・・


裏を見せ表を見せて散るもみじ


亡くなるときは、死とともに自分の生が全部消えていく。
どことなくおだやかでいいですね。
山と話し、
川と話し、
雲と話してござる人には、これはもう相撲とれません。
フッとそんな気がするんです。



「NHK歴史と人間」 日本放送出版協会  昭和53年発行











撮影日・2019年4月6日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

童と良寛

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市玉島  JR新倉敷駅
ブロンズ
原型 半田郷陽
像高 140cm 制作 宮本隆
昭和51年5月16日建立
玉島ライオンズクラブ20周年記念

良寛(1758~1831)
新潟県三島郡出雲崎の人。

岡山文庫








談・水上勉

良寛

やっぱり子供をかわいがられたようですね。
一番純真で、思想も近い。

とにかく自分では鍬も持たず、弟子もとらず、寺もいらん、と。
そうしたら何をするといったら子どもと遊ぶぐらいしかありませんからね。

良寛さんは名主の息子さんで、まあ地方の町の上流階級の坊ちゃんですよね。

十八で曹洞宗、禅宗ですね、小僧さん出家としては遅いほうです。
玉島の国仙和尚さんが偶然越後に来られて、慕って玉島までいくわけです。


玉島まで、今の倉敷の方ですね。
この玉島というのは行ってまいりましたけども、資料というのがなかなか残っていない。


「NHK歴史と人間」 日本放送出版協会  昭和53年発行







撮影日・2008年11月30日


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿部正弘

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・広島県福山市  福山城公園


日米和親条約

安政元年、ペリーは再び軍艦を率いて日本へ乗り込んできた。

今度は本当に戦争をする気で乗り込んできています。
江戸湾奥深くまで侵入してきて、江戸城が見えるあたりまで船をすすめたと記録にあります。
品川沖までやってきて挑発する。
ボートを降ろして測量をする。
その沿岸には彦根藩、肥後藩、長州藩など幕府の命令で出兵し、軍艦の挙動を見守っておる。
これはいよいよ戦争だということになる。
この時のあわてぶりは大変なものです。
沿岸の住民は家財道具を積み込み、山の方へ避難したと当時の日記には書いてあります。


幕府の方では戦争する気はない。
日米和親条約が結ばれるわけです。
「アメリカ合衆国と帝国日本両国の人民誠実不朽の親睦を結び、親睦を旨とし、・・・勅諭を信じて双方左の通りに候」

幕府は日本君主となっている。
勅諭のくだりは、たぶん降りるものという前提がある。
まことに機敏のある表現です。
君主といえども、勅諭が出ないと勝手に条約を結ぶことはできないと、勝手に決めている。
これは一つには、幕府は逃げている。
責任を持ちたくない。
国内に強硬派の攘夷論がある。
和げる表現をとったと思われます。

伊豆下田と松前地函館が、およそ7里の内は自由に徘徊可能と決まった。
幕府にとって、外国との条約締結などは初めての出来事で、かなり慎重であった。




将軍家に反対する意見でも聞いてやるからと、老中阿部正弘の名前で出しています。
諸藩から集まった意見書を見てみますと、
外国と交通をせよというのはほとんどないですね。
やはり、これまでどおり幕府の祖法を守って鎖国の体制を続けていけという意見が圧倒的です。

阿部正弘というのは意見を大変よく聞いた人です。
残念なことに、安政4年、39歳の若さ早死にしますけれども、
ずっと生きていたなら世の中の動きも変わっていますよ。
これだけ人望のある人はいなくて、
この人が老中首座でおる限りは、誰もちょっと手が出せない。
それに島津斉彬がこの人を助けていますからね、
島津斉彬は当時、賢君中の賢君で一番人望もあり、才能もあった。


阿部正弘としては、国内の意見が一つにならなかったら、日本の国はアメリカやイギリスやフランスなどの列強の圧力には対抗できんと考えて、
あえて前例を犯して意見を聞いたのです。
当時としては、彼の頭は非常に進んでいるわけですよ。
朝廷にも意見を求め、朝廷を含めた挙国一致で対処しようとしたのです。


「歴史に学ぶ」  奈良本辰也  潮文庫  昭和60年発行









「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

老中・阿部正弘の福山藩の藩政改革

安政2年、藩校・誠之館を開校。
そこでは漢学・国学・洋学・医学・軍法など、時勢に対応した科目が教えられた。
試験の成績に応じて役職に就かせるという「仕進法」が採用された。
従来の世襲的な人事を大きく変革することを試みたのである。

それと同時に西洋式の軍隊訓練を導入し、城下に大砲鋳造所を設けた。
安政4年、阿部が39歳という若さで病没したことでその勢いを失った。











阿部正弘

阿部伊勢守正弘は、文政2年(1819)10月、江戸西の丸下の福山藩邸で生まれた。
父正精は当時老中、母は側室。6番目の男子であるから、生涯部屋住みで終わる可能性もあったが、
天保7年(1836)正弘が第10代の藩主となった。
天保9年、福井藩主の次女を娶った。
天保11年、寺社奉行。
天保14年。老中。わずか25歳。
翌、弘化元年に老中首座となった。

最初の問題は、水野忠邦の天保の改革の手直しである。

正弘の老中在任は15年間にわたったが。この間、幕府にとっても彼にとっても最も困難な課題は、
開港問題の処理であった。
弘化元年、オランダ王は幕府に親書を寄せ、阿片戦争による清国事情を詳細に述べ、日本も速やかに鎖国を改める忠告をした。


「城と街道」 南條範夫 中公文庫 昭和56年発行




撮影日・2018年10月27日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする