しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

村上森造銅像(台座のみ)

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・岡山県浅口市寄島町大浦  大浦神社




寄島の大浦神社に行ったとき、銅像の台座と思えるものに、やや不釣り合いの記念碑がおいてあった。
地元の方に聞いてみたら、
「銅像があったが、戦時中に供出した。戦後しばらくして、これではあまりに気の毒だから、と記念碑を置いた」
との話だった。

さらに、碑の人は○○を作ってくれた、寄付してくれた、という話を「知らせる」という感じでなく
「今でも感謝している」という口調で話された。

銅像が供出後70余年を経て、今に感謝の念を持たれる人が気になった。


それが貿易で財を成した村上森造翁だった。












「ふるさとの想い出写真集」 森脇正之編  国書刊行会  2020年発行

村上森造

村上森造は、寄島町早崎の豆腐屋に生まれ、
大志をを抱いて明治22年20歳の時、神戸へ出て、麦稈真田の貿易に従事し、
直接外国商社と取引して巨万の富を得た。
先見の明があり、絶ゆまぬ奮闘努力が知られていた。
公共事業、社会事業への寄付を惜しまず、
郷里寄島町および付近の町村の学校、役場、青年団、社寺、火見櫓などに多額の献金をした。
町民はこれに報いるため、大浦神社西に銅像を建立。
写真は昭和3年の銅像除幕式。
戦時中に供出された。





撮影日・2020年2月3日



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材木の供出

2021年04月24日 | 昭和16年~19年
戦時中の「金属類供出」はよく知られている。
学校の金次郎像やお寺の鐘が溶かされ、家庭からも多くの生活用品が”出陣”していった。

戦争末期には材木も供出されたのは知っていたが、その対象となるのは山の木ではなく神社・寺院の古木(大木)であったようだ。
八百万の国では、大木は地元で神木となって祀られていると思うが、どのような木が出陣したのだろう?
なお使用目的は、木造船の材料である。


身近な場所からも出陣していった記録写真があったので、転記させてもらう。








「ふるさとの想い出写真集」 森脇正之編  国書刊行会  2020年発行

長川寺の大松の供出


鴨方町長川寺の境内にあった大松。
戦時中に供出することになり、伐採されたが、
これを前に仏事が営まれ、記念に写されたものである。

昭和17年頃



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役行者小角

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市西阿知


役行者は「その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、
右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち」のだが、
この像に錫杖は欠けている。

県内に数ヶ所以上の役行者の像はあると思える。






「超人役行者小角」 志村有弘  角川書店  平成8年発行

はじめに

役行者(えんのぎょうじゃ)くらい謎につつまれたふしぎな人はいない。
行者は空を飛行することができたという。
役行者は通りいっぺんの仙人ではなかった。
人にとりついた怨霊を鎮めたり、病人をなおしたり、行者に助けられた人は数えることができないほどである。
行者の与える呪符は、多くの人々を難病・奇病から救ったといい、だから、後世、『扶桑皇統記』の作者は世人が「活仏(いきぼとけ)」のごとく敬ったと書いている。

行者が偉大であったのは、天武天皇が帝の位に即くときに、相当な助力をしていると思われるのに、まったく歴史の上では姿を現していないことだ。
けっして表面に名前が残るような姿勢を見せなかった。

役行者は、ある一定の場所にとどまっているということがなかった。
生まれ故郷の大和から、北は関東、東北まで足をのばし、南は中国地方から九州の各地まで、
高い山があれば修行の場を求めて飛び去って行った。








(Wikipedia)
役 小角

舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、
飛鳥時代の呪術者。
役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも広く知られている。
日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされている。

実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。
天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。






撮影日・2016年4月23日

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新渡戸稲造

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・北海道札幌市  北海道大学





新渡戸稲造

稲造は文久2年(1862)盛岡市に生まれた。
祖父は父とともに三本木原開拓者となった。

稲造は、明治13年札幌農学校を卒業し、ついで東京大学文学部に入ったが中退し、米独で経済学を学び、
帰朝後札幌大学教授となり、農学博士となった。

後藤新平の知遇を受け台湾殖産局長となり、36年京都大学法学部教授となった。
39年法学博士の学位を受け、第一高等学校長兼東京大学教授となった。

大正8年国際連盟次長となり、
大正14年帝国学士院、

昭和元年貴族院議員となり、
同8年太平洋会議の日本代表になったが、昭和18年72歳で永眠した。
盛岡の生んだ碩学であり、国際的政治家であった。

晩年はみずから”太平洋のかけはし”として日米間の調停のために活躍している。

「岩手県の歴史」 森嘉兵衛  昭和47年発行








新渡戸稲造

文久2年(1862)~昭和8年(1933)
盛岡生まれ、
明治17年、米・独へ留学。
第一高等学校校長、東京帝国大学教授、
大正7年東京女子大初代総長となる。
人間の人格と普遍的な人間的価値を重んずる教育を実践した。
東西文明の融合を理想とし、大正9年国際連盟の事務局長となる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






撮影日・2017年8月1日


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岸壁の母

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・福井県舞鶴市 「舞鶴引揚記念公園」



母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて








あれから何年 今もなお
休まず「おはよう」「おやすみ」と 忘れず送ってくれるのか
遠く離れたシベリアの 雪に埋もれた病院で
一人寂しく故郷を 思い起こしておはようと
つぶやく息子の寝姿を そっと瞼の裏に描きゃ
いじらしいやら悔しいやら 早く会いたい顔見たい
いいえ募る思いに血が煮える










悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖一つ



「日本の古典芸能 浪曲・怪談」  龍口雅仁編   丸善出版  令和元年発行











(Wikipedia)

岸壁の母

岸壁の母(がんぺきのはは)とは、
第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、
ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、
時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、
これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、
たちまち有名になった。

その一人である端野いせをモデルとして流行歌(1954年など)、映画作品のタイトルともなった。





撮影日・2013年8月2日



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大伴家持

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・富山県高岡市  JR高岡駅前


万葉集

『万葉集』はいうまでもなく、日本最古最大の歌集であり、
その成立期間も5世紀から8世紀ごろまでの450年間におよぶ。
天皇、皇族のうた、民衆のうた、それも農民から防人、乞食にいたるまで
社会のあらゆる階層を含み、歌の形式も多様である。
編者も一人ではありえないが、
現在に近い形にまとめあげたのは大伴家持という説が有力だ。
とにかく、当時これだけ幅広く人間と自然の営みを映した文学作品は、
世界のどこにもない。


なにしろ古いものだから”万葉集”の意味さえ定かではないが、
常識的に「多くの歌」ということだろう。
用字法は万葉仮名で、平安時代にはすでに難解とされていた。
第二次大戦中、大伴家持の
「海行かば水漬く屍、 山行かば 草むす屍」
といった部分が悪用された記憶が、なまなましい。

「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行









「富山県の歴史」 坂井誠一  山川出版社 昭和45年発行

国守大伴家持

大伴宿祢(すくね)家持は天平18年(746)越中守に転じ、
少納言に任ぜられるまで、満5年の間、越中に在任した。

大伴氏は代々武将で、武をもって朝廷につかえた名族。
家持が越中に赴任したころは東大寺大仏の建立という大事業をひかえて、橘諸兄と藤原仲麻呂の対立があるなど、重要な時期であった。
家持は諸兄に近かった。

大伴家持は、律令官人としてよりは「万葉集」の選者として著名であるが、父旅人とともに歌人としてすぐれている。
越中の自然は立山・奈呉の浦など「みれどもあかず」彼の詩心をそそるものが多かった。

大伴家持の在任した越中国府は、現高岡市伏木古国府であることはうたがう余地がない。
交通の便と要害をかねそなえている。








撮影日・2015年3月10日




コメント (2)
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大友宗麟

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・大分県大分市 JR大分駅前
制作・富永直樹
設置・昭和57年






「NHK歴史と人間」 日本放送出版協会 昭和53年発行

大友宗麟

大友家というのは、九州の北部の守護職。
家柄の古い名門として鳴らした家なんです。

大友宗麟が歴史上に名前を残しているのは、キリシタン大名という肩書によって、かろうじて名前が残っているんじゃないかという気がいたします。

洗礼を受けたのが49歳で、亡くなる58歳まで10年に満たない歳月です。

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来まして、
それから布教のためには、天皇の許可を求めるのが一番いいだろうといのうで、京都にのぼろうとする。
その途中に山口によります。

ポルトガルの難破した船を宗麟が助けて、ポルトガル人に人気があった。
宗麟も縁故を結びたくて神父さんを招いた。

表面は神父さんたちと仲良くして、本当は南蛮人がもってきた鉄砲とか貿易、その利益のために仲良くなる。
両方ともギブ・アンド・テイクの関係です。

30代初期になると、頭まるめて、宗麟になってしまう。
初めてザビエルに会ってからキリシタンの洗礼受けるまで約30年近くかかっています。



武将としても勇名をはせたような実績はないようです。
政治的な手腕の方はあったんじゃないでしょうか。

天正7年、4人の少年使節をローマの本山に送ったことですね。
その遣欧使節はヨーロッパで非常に歓迎されたんです。
けれども7~8年を費やして日本に帰ったときは、もう秀吉が天正15年に有名な禁教令をだしたあとですしね、
風向きが変わってますから派遣した効果はなかったんです。

ただ、その時に印刷の機械を日本に持ち帰っているんです。
それから長崎や天草に活版所を作りまして、いろんな印刷をやったわけです。
『平家物語』や『イソップ物語』、翻訳して出版しているんです。










大友宗麟

享禄3年(1530)~天正15年(1587)
安土桃山時代の武将。キリシタン大名。
豊後出身。
天文19年(1550)豊後・肥後の守護職を継承。
のち九州探題となり全盛時代をつくる。
ザビエルを招いてキリスト教を受容し、西洋文明の移植に努めるとともに、貿易の利を収める。
自らも受洗、少年使節団伊藤マンショらをローマ教皇に派遣した。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




撮影日・2013年2月21日




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