場所・山形県山形市 山形城跡
義光は家康の気を引くため、徳川家の臣になっていた次男に家督を譲り、長男を殺害した。
義光の死後これが原因となって家中がみだれ、孫のとき最上家はとりつぶしとなったのである。
【最上義光】
出羽山形城主。
足利氏の一族斯波兼頼の子孫で、義光は11代目。
朝鮮の役の時は、肥前名護屋城に家康とともに駐在した。
関ケ原役後山形57万石となる。
慶長19年(1614)没す。69歳。
戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行
日本の城下町2東北(二)1981 ぎょうせい
山形市
山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。
最上改易後の山形城主には鳥居、次いで保科と変わり、幕末まで十二氏が変わった。
あわただしい交代劇は,藩風、藩学や、芸能文化も移入しなかった。
義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、
西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。
最上川水運がととのったのは寛文(1596~1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。
紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。
農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。
享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。
そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。
明治初年、化学染料が輸入され出した。
撮影日・2019年6月30日
義光は家康の気を引くため、徳川家の臣になっていた次男に家督を譲り、長男を殺害した。
義光の死後これが原因となって家中がみだれ、孫のとき最上家はとりつぶしとなったのである。
【最上義光】
出羽山形城主。
足利氏の一族斯波兼頼の子孫で、義光は11代目。
朝鮮の役の時は、肥前名護屋城に家康とともに駐在した。
関ケ原役後山形57万石となる。
慶長19年(1614)没す。69歳。
戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行
日本の城下町2東北(二)1981 ぎょうせい
山形市
山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。
最上改易後の山形城主には鳥居、次いで保科と変わり、幕末まで十二氏が変わった。
あわただしい交代劇は,藩風、藩学や、芸能文化も移入しなかった。
義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、
西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。
最上川水運がととのったのは寛文(1596~1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。
紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。
農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。
享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。
そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。
明治初年、化学染料が輸入され出した。
撮影日・2019年6月30日