しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

最上頼光

2021年04月12日 | 銅像の人
場所・山形県山形市  山形城跡





義光は家康の気を引くため、徳川家の臣になっていた次男に家督を譲り、長男を殺害した。
義光の死後これが原因となって家中がみだれ、孫のとき最上家はとりつぶしとなったのである。


【最上義光】
出羽山形城主。
足利氏の一族斯波兼頼の子孫で、義光は11代目。
朝鮮の役の時は、肥前名護屋城に家康とともに駐在した。
関ケ原役後山形57万石となる。
慶長19年(1614)没す。69歳。

戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行









日本の城下町2東北(二)1981 ぎょうせい

山形市

山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。
最上改易後の山形城主には鳥居、次いで保科と変わり、幕末まで十二氏が変わった。
あわただしい交代劇は,藩風、藩学や、芸能文化も移入しなかった。

義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、
西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。
最上川水運がととのったのは寛文(1596~1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。

紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。
農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。
享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。
そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。
明治初年、化学染料が輸入され出した。






撮影日・2019年6月30日


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堀尾吉晴像

2021年04月12日 | 銅像の人
場所・島根県松江市  松江城






「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

堀尾吉晴
鬼神の働きホトケの茂助

秀吉は堀尾吉晴の武功について、
「吉晴は、わしが藤吉郎といった時代からの家来で、幾度もの合戦に出撃しているが、
その武功は万人にまさり、源頼光の四天王にも匹敵する」

信長の浅井攻めでは、敵の斥侯を討ち取り、長篠の役で首二級をとっている。
中国の毛利攻めでは身に13ヶ所の傷を負うという大奮戦だった。
明智討伐の山崎の合戦、柴田勝家を破った賤ケ嶽の合戦と、吉晴の武名は合戦のたびに高まっていった。


吉晴はふだんは温厚で、容貌は一見して女のようにやさしかったという。
「仏の茂助」とあだ名されたぐらいであった。

秀吉の死後は、徳川家康に近づいている。










愛知県生まれで、織田信長や豊臣秀吉に仕え、関ケ原合戦後、

松江に転封された大名。

松江城と城下町を開発したが、吉晴は城の完成直前に急死している。

「日本の銅像完全名鑑」 広済堂出版 2013年発行










撮影日・2019年4月4日



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佐久間象山

2021年04月12日 | 銅像の人
場所・長野県長野市小島田町  川中島古戦場(八幡原史跡公園)



「氷川清話」  勝海舟 角川文庫 昭和47年発行

佐久間象山

佐久間象山は、もの知りだったよ。
学問も博し、見識も多少もっていたよ。
しかしどうもほら吹きでこまるよ。
あんな男を実際の局に当たらせたらどうだろうか・・・、なんとも保障できないのう。

顔つきからして一種奇妙なのに、古代模様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、
元来勝気の強い男だから漢学者が来ると洋学をもっておどしつけ、
洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生が尋ねてきても、じきにしかりとばすというふうで、
どうも始末にいけなかったよ。









国立国会図書館

佐久間象山 さくま しょうざん
文化8年2月28日~元治元年7月11日 (1811~1864)

解説
実名は国忠のちに啓、号は象山。
父は松代藩の祐筆。
天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。
10年江戸に塾を開く。老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年に「海防八策」を上書。
安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。
文久2年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。








撮影日・2014年7月14日



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